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【コラム】2005.9.2
急速に広まる階級化社会
 「不平等社会日本」、「日本の不平等」、「しのびよるネオ階級社会」。このような物騒なタイトルの本が店頭に目立つようになった。

 士農工商に代表されるように、日本にも昔から階層社会があったわけだが、世界大戦により、日本国民すべてが0からの再スタートを余儀なくされ、いったんは階層社会はなくなった。日本国民1億総中流と呼ばれた時代もあった。しかし、高度経済成長、バブル崩壊による平成大不況などにより、1990年頃から再び階層化がすすむことになった。

  「成果主義は日本にあわない」という認識が広まり成果主義の見直しがすすめられているが、それは表面的なことに限られている。現実はシビアで、一部の層には「成果主義の導入で親世代の収入格差が拡大」しているのが実状だ。昨年末に発表された経済開発協力機構のリポートによると、日本では1世帯あたりの平均所得(476万円)の半分以下しか稼げない貧困世帯が15%を超え、この10年で2倍近くに膨らんだという。日本の貧困率はメキシコ、アメリカ、トルコ、アイルランドに次いで5位。一方、国税庁の調査では年収2000万円以上のサラリーマンは10年間で2万人も増えた。所得格差は確実に広がっているのだ。

 こうした所得格差を世代を超えて固定化させるのが「教育格差」だ。この教育格差は親の代から始まり、即子ども世代の教育格差につながる。そして、その格差が次の世代にも続くという、固定化・負の連鎖が始まっている。日本の最高学府東京大学の合格者の実に7割が年収1000万円以上の世代だという。公立の小中学校へ通ったら、九九や漢字すらまともに教えてもらえない。まともな教育を受けるためには、お金と労力をかけて、塾や私学へ通うしか選択の余地はない。
 
  これからの日本企業が求める人材は
(1)経済のグローバル化に対応できる少数エリート
(2)専門分野に通じたスペシャリスト
(3)大多数の「低賃金で雇える労働者」
の3種類だという。少数のエリートが大多数の労働者階級を支配する構図だ。

 文部科学省が打ち出した公立学校の“ゆとり教育”は、まさにこのような階層化社会を招くための口実に過ぎなかったのだ。ゆとり教育とはすなわち、少数のエリートが大多数の労働者階級を支配する『エリートのための教育』だったのだ。現場教師が、「勉強だけがすべてではない」とか「テストの点数といった学力は必要ない」などと、ゆとり教育の背景にある“意図的な部分”を汲み取らず、愚民化・階層化を招くような教育を煽り実施してきたことを深く反省し、即刻改めるべきである。

 例えば、現場教師が「これからの社会は情報化社会なのだから知識は必要ない」このような根拠のない“デマ”を教育現場で吹聴する傾向がある。情報化社会では、多くの情報が氾濫するがゆえに、確かな知識が必要となるのだ。最近個人投資家が急増しているが、個人投資家の実に8割近くが“投資元本割れの負け組”になっている。個人投資家は、機関投資家などのいわばプロに比べれば、情報も知識もはるかに及ばないからこれは至極当然のことだ。

 先の階層化社会でも同様だが、知識の量がそのまま勝ち組・負け組の分かれ目となるというわけだ。階層化社会を招いたのが教育ならば、階層化社会を打破するのもやはり教育なのである。現場教師はもっと社会に目を向け、21世紀に必要な学力・教育というものがなんたるかをよくよく勉強すべきであろう。

【コラム】2005.1.17
現場教師は「誤った学力観」を改めるべきだ
 日教組教研集会のとある分科会で「学力とは何か」という学力問題が取り上げられた。

 そこでは、学力には、知識や計算力など点数化できる学力と、知識や技能の応用能力といった目に見えにくい学力とがある。そしてこの2つの学力は、どちらか一方が大切だというのではなく、たがいに両立すべきだという意見が飛び出した。言い換えると、自ら考え自ら学ぶ教育を推奨しつつも、教育の根本である「ドリル学習」を否定すべきではないということだ。

 新しい学力観やゆとり教育、そして絶対評価など確かに、ここ十数年の学校教育は混乱を極める一方だった。その中で、学校教師は、「詰め込みは良くない」、「反復練習は良くない」、「ドリル学習は古い」などと、基礎基本の教育をさんざんこきおろしてきた。今は、子どもたちが自ら学び、自ら考えることが大事で、読み書き計算をやらせるのは古い教育だと、現場教師は信じて疑わなかった。

 その結果が、IEAやOECDの国際調査にみられるような、さんざんたる結果だ。現場教師がこうした事態になることを、わからずやっていたのであれば、プロとして失格である。もし、学力低下が起こるとわかっていて黙認してきたのであれば、それは犯罪的行為ですらある。

 筆者はこの学力低下の結果に少しも驚かなかった。なぜなら、教育の普遍的基礎基本である読み書き計算を軽視する一方で、本来子どもたちにつけるべき力を無視し、ただ楽しいだけの授業、ただ面白いだけの授業をするという子どもたちに迎合する教育をすれば、学力が低下するのは当然だからだ。

 読み書き計算をせず、見る聞く話すだけの単なるお遊びだけの授業では、子どもたちに「楽しい」と思わせても、確かな学力は保証しない。

 今、九九も言えない小学生や、指を使わないとひき算ができない小学生がたくさんいる。漢字もろくに読めない小学生は、昔と比べてはるかに増えている。こうした子どもたちをつくってきたのは、学校教師以外のだれでもない。

 現場教師自身が、「学力」という言葉を今一度勉強し直すべきだ。

【コラム】2004.12.7
−国際的にも立証された学力低下−現場教師はこの結果を真摯に受け止めるべきだ
 経済協力開発機構(OECD)は7日、加盟国を中心とする41か国・地域の15歳男女計約27万6000人を対象に実施した2003年国際学習到達度調査(略称PISA)の結果を世界同時発表した。

 8位だった日本の「読解力」は、加盟国平均に相当する14位に落ち込み、1位だった「数学的応用力」も6位に順位を下げた。これで、国際的に日本の学力低下が認められたことになる。

 1970年ころから「ゆとり教育路線」と称して、学習時間と学習内容がことごとく削られてきた。もちろん、消化しきれないほどの学習内容を詰め込み教育という形で子どもたちに押しつける教育が良くないのはいうまでもない。しかし、裏が透けて見えるとまで揶揄(やゆ)されるほど薄い教科書では、子どもたちに身につけるべき基礎基本さえもままならない。

 思えば、新学力観、総合的学習の時間、絶対評価の導入後、子どもたちの基礎学力の低下を懸念する声が挙がって久しい。1999年に「分数ができない大学生」が出版されて依頼、学力低下論争が続いているが、今回のOECDの結果を、現場教師は真摯に受け止めるべきだ。

 もちろん、文部科学省の二転三転する教育行政にはうんざりだが、国家百年の大計と言われる教育をになっているのは現場教師であることは言うまでもない。この現場教師が、ここ十数年学力低下の片棒を担いできたのだから、批判の対象となって然りである。

 学力の基礎基本は「読み書き計算」である。教科書が読めないでいったいないがわかるのか?計算もできないでいったい文章題が解けるのか?考える力がつくのか?


 現場教師はこうした疑問を無視し続け、ただ盲目的に、読み書き計算を軽視し、考える力を育てる教育、自ら進んで学ぶ教育と呼ばれる教育を、ここ十数年おこなってきた。その結果がこのざまである。

 現場教師が実行してきた、「考える力を育てる教育」が、かえって考える力を奪う教育であり、「自ら進んで学ぶ力を養う教育」が、実は子どもが一番勉強しないようにし向ける教育だったことが、これで立証された形だ。

 読解力は大幅に低下し、数学の応用力は首位から陥落した。通常の授業以外に、自分の勉強や宿題をする時間が週平均6.5時間で、加盟国平均の8.9時間を大幅に下回った。

 自ら学び、自ら考える力を育てると称した教育の結果がこれである。いったい現場教師はこれまで何をやってきたのだろうか?

 現場教師は、今まで自分たちがやってきた教育の無意味さをこの機に知るべきだ。そして、教師自身がもっと勉強すべきだ。考える力や自ら学ぶ力を養っていると思ってやってきた教育が、実は考える力も自ら学ぶ力もなくす教育だったことを恥じるべきである。

 現場教師に「ちゃんと仕事をしろ」と問いつめたい今日この頃である.。
【コラム】2004.10.2
始まった内申バブル
<神奈川県の評定平均>
国語 4.4 13.3 42.1 28.1 12.1
社会 5.2 14.2 38.9 27.7 14.0
数学 6.9 15.4 33.7 28.6 15.3
理科 5.0 14.2 37.9 29.8 13.1
英語 5.9 16.7 36.0 25.7 15.6
理論値 7% 24% 38% 24% 7%
 相対評価では、「5」は7%、「4」は24%、「3」は38%など、というように割り振りが決まっています。
 2002年度から、相対評価から絶対評価にかわったことで、数々の問題が指摘されていますが、このたび神奈川県が公立学校の絶対評価の評定分布の平均値を発表しました。
 結果を見て、予想通り、「1」や「2」が減り、「5」が増えるという、内申バブルが確認されました。

【コラム】2004.5.10 現場教師の意識、まだまだ低い「学校評価」
 すべての公立学校に「学校評価」が課せられて2年が過ぎた。開かれた学校づくりに向けた一歩だが、現場では「何を基準に評価するのか」、「親や地域の人にどこまで評価してもらうのか」と戸惑いばかりが目立つ。方法も模索中だ。

 評価の問題は学校評価に限ったことではない。相対評価から絶対評価に変わったことで、「5」や「4」が増え、「1」がほぼ皆無という内申バブルの結果、公立学校の不合格者が倍増した県があるということが問題になっている。

 現場教師には「評価なんてやってどうなるの?」という思いがまだ強い。評議員に年に数度授業を公開し、○、△をつけてもらってそれでおしまいという学校が少なくない。教育のプロであるはずの教師が、学校評価に対する認識がこの程度であるから、内申バブルといった問題がおこるのだ。

 評価とは、ある方法が効果的だったか調べるための手段である。対象が学校だろうが生徒の学力だろうが本質は変わらない。ある教師は絶対評価になって「1」を乱発している。一方で「4」や「5」の生徒の学力を過大評価している教師もいる。

 絶対評価なのだから、自分の生徒に「1」をつけるということは、教師自身の指導力不足にほかならない。大いに反省すべきことであるはずだ。しかし実際には、「1」がつくような生徒に対する教師の認識は「できない子はできない」とまるで他人事だ。無責任すぎる

 一方で、実際には「3」程度の力しかない生徒に平然と「4」や「5」をつけている教師が大半だ。そういう教師に疑問の声を投げかけても反応は冷ややかだ。絶対評価になって「ちゃんとした評価基準を作成している。いわれのない誹謗中傷は迷惑千万」と逆切れ状態。

 学校ごとに評価規準(基準)なるものがある。以下にその例を挙げる。
A・・・丁寧な字で、黒板に書いた字すべてが書かれている
B・・・丁寧な字で書いてあるか、あるいは黒板に書いた字すべてが書かれている
C・・・書いてある

 しかし、これらは学校によって評価の基準が異なる。同じ「A」でも学校ごとに重みが違う。これでは評価にならない。 「1センチメートル」というのはメートル法に定められたメートルの100分の1であり、原器は世界でただ一つである。だからこそ、世界共通の物差しとして有効なのである。今の絶対評価では、ある学校では1センチをこのくらいといい、他の学校では1センチはこれだけだという。これでは共通の物差しとして全く意味をなさない。現場教師がこのような根本的な問題に目を向けず、目先の評価規準(基準)にとらわれているのが現状だ。

 現場教師はそれでもちゃんとした評価をしているというのか。ちゃんとした評価をした結果が「3」の子どもに「4」や「5」につけることなのか?これは、企業で言えば粉飾決算にあたる。

 さて、保護者の率直な意見、ときにはわがままな自己中心的な意見もあるが、それらが出すぎると、教員の腰がひける。 しかし、教育の本質はサービスであり、顧客である保護者や生徒の多様な要望に正面切って向き合う必要があるのではないか。

 顧客の要望を聞くのと、顧客に迎合するのとでは全く意味が違う。保護者一人ひとりの要望をいちいち聞いていたのではらちがあかない。しかし、一人ひとりの保護者と向き合うことで、今後の教育の方向性は見えてくるはずだ。

 結局のところ、「教育」とは、学校、地域、保護者が三位一体で行うことが不可欠である。

【コラム】2004.4.1 文科省事実上ゆとり教育失政を認める
 2004年3月30日、文部科学省が事実上「ゆとり教育敗北」を認めた。2005年度からの小学校用教科書で、前回の検定でことごとくはねられた「発展的内容」の掲載を認めたからだ。それでも「発展的記述」という表示付きという条件付きである。

 「ウラが透けて見える」とまで揶揄された薄い教科書が少し厚くなる。発展的記述の具体例としては、「台形の面積の公式(小5算数)」、「水中の微小生物の説明(小5理科)」のように、従来の教科書にありながら前回の検定で削除された内容の復活が目立つ。一方、素数(小6算数)や平方根(小5同)、食物連鎖(小6理科)など、過去にもなかった中学レベルの内容を載せた教科書もある。

 くり上がりのあるたし算では、1けた同士が原則だという。「9+9」や「10+8」は教えても良いが、「10+9」は教えてはいけないという。全く意味不明だ。国語や社会では、出版社が発展的記述として申請した多くの内容が、今回の検定では「指導要領の範囲内」と判断されており、検定の迷走ぶりも露呈した。

 今回の検定に、教科書会社は四苦八苦だ。多くの教科書会社は、教師に「復活を望む内容」のアンケートを行っている。結果、「メダカの生態」や「ムラサキキャベツの実験」など、要望の強かった内容のほとんどが今回盛り込まれている。「内容を削りすぎたせいで授業がわかりにくくなった」という現場の叫びに配慮したものだという。

 各界の反応は極端だ。教育現場では、「二転三転に」大混乱だ。当初は教科書検定で指導要領外の内容はいっさい認めなかった文部科学省は、学力低下と批判されると一転「指導要領は最低基準」だといい、今回は発展として「指導要領外の内容」を認めたり、これには現場の教師も「何を教えればよいのかわからない」と言い出す始末。

 現場の教師の中からは、「学力の二極化」を懸念する声もあがっている。「発展的記述」はいわゆるできる子向けの配慮であり、できない子はおいてきぼりのままだ。また、発展的学習は、全員が学ぶ内容でないため、習っている子と習っていない子の差が生まれる。これでは、ますますできる子とできない子の差が激しくなるという。

 こうした中、「ゆとり教育」を冷ややかな目で見ている人たちもいる。学習塾などの教育産業界の人間だ。学習塾の株式上場企業は20近い。特に「(株)秀英予備校<4678>」や「(株)リソー教育<4714>」は審査の厳しい東証1部に上場している。少子化の中、業績も株価もうなぎ登りである。教育産業界では、「ゆとり教育はいずれ方向転換する」と確信していたという。

 「なにをいまさら」、「当然のこと」。反応は冷ややかだ。なぜなら、大半の学習塾は「2002年度に指導要領が改訂されても、これまで以前と同様の学習内容を教えていた」からだ。基礎基本とは、普遍的なもの、絶対的なものであり、誰がなんと言おうともこれだけは教えるべきであるという理念が塾にはある。今回掲載が認められた「寿限無」も「小数第2位の計算」も、学習塾では当たり前に教えられている。文部科学省が学習指導要領を3割削減しようとも、教えるべき内容を熟知しているからだ。

 「詰め込み教育」と批判され、教科書の内容が減らされ続けてはや25年、今度は一転、「減らしすぎて学力低下」と批判された文部科学省のゆとり教育路線は、今後も迷走を続けそうだ。

 折しも、今回の記事が掲載された3月31日は「教育基本法誕生57周年」にあたる。翌4月1日はエープリルフールであるが、これを機に「国民全体で教育を問う」てはどうだろうか。くれぐれもエープリルフールでないことを願う。
「武富士ダンス」練習したのに…抗議で学校が曲目変更へ 2003.12.6
 消費者金融「武富士」のテレビCMに登場する「武富士ダンス」を総合学習の時間に採り入れた愛知県稲沢市の市立小学校が、同社の盗聴事件発覚後、親からの抗議を受け、曲目の変更を余儀なくされていることがわかった。小学校側は「ノリのいい曲で児童たちも喜んでいたが、時期が悪かった」として、代わりの曲探しを急いでいる。
 学校側によると、同校の4年生(約70人)は今年度、総合学習の時間を使って「踊り」を学んでいる。
 「武富士ダンス」は、同社が家宅捜索される直前の11月中旬、担当教員らが話し合って採り上げるのを決めた。曲は3番まであり、子どもたちはすでに2番までマスター。来年の「6年生を送る会」で披露するのを楽しみにしていた。
 しかし、親からは「子どもは事件の深い意味を知らない。だいたい消費者金融のCMを扱うこと自体、学校の判断力が欠如している」との声が上がった。校長は「盗聴事件が世間を騒がせており、保護者らの指摘も理解できる」と述べ、曲を変更する方針だ。
 武富士のダンスCMは91年からテレビ放映を開始。レオタード姿の若い女性ダンサーたちのダイナミックな踊りで一躍ブームとなり、各地のフィットネスクラブでもレッスンメニューに採り入れられた。盗聴事件を受けて、CMは現在、放映を自粛している。
http://www.asahi.com/edu/news/TKY200312060194.html

 そもそも、総合的な学習の時間で「踊り」を学んでいること自体が理解できない。学芸会や運動会で「踊り」をするならともかく、総合的な学習の時間で「踊り」を学んでいては肝心の基礎学力がおろそかになっていないか不安である。公立学校はダンス教室ではない。総合的な学習の時間の教育目標を勘違いしている学校はほかにもあるだろう。
 さらにこの件で問題なのは、消費者金融のCMを採り入れていた点である。盗聴事件がなかったとしても、消費者金融という業種やノルマだいいちの社風そのものが教育に適した企業ではない。学校関係者の認識が甘かったと言わざるを得ない。

■<政治>小泉ウソつき内閣
 国家(政府)は、国民の財産と生命を守るべき大切な役割をもっています。しかし、この国の政府は、拉致問題は20年以上放っておき、拉致された人々の何人かがまさに帰らぬ人となっています。無料になるはずの高速道路は半永久的に有料化が確定しています。国の借金は700兆円にのぼっています。不十分な(というよりも全く無為無策な)安全保障のおかげで、今われわれを脅かしている弾道ミサイルや核兵器の部品を、自分の国でつくってあげるというまったく滑稽な国家なのです。

 小泉内閣が誕生して2年ほどたちます。当初、この「小泉内閣こそおかしく、そして恐ろしい内閣はないのではないか」と思っていましたが、まさにその通りになりました。公約だった一内閣一閣僚も、国債発行30兆円以内も、すべて破られました。郵政三事業民営化こそ実現されましたが、郵便局が郵政公社にかわったところで、われわれの生活が良くなることは何もありません。

 2003年から税制が変わりました。医療費の自己負担率が2割から3割へ、たばこ税や発泡酒税が値上げされ、配偶者特別控除は廃止されました。失業手当は引き下げられました。社会保険料は総報酬性が導入され、これまでボーナス時に数千円だった社会保険料が一気に十数万円まで跳ね上がりました。これを小泉首相は「減税だと」大ウソをついたのです。ウソといえば、生命保険会社の予定利率を引き下げられる法案が可決されました。これは生命保険会社が約束した利率を守れなくなったとき、国がそれを認めてしまう法律です。つまり生保の予定利率引き下げという詐欺行為に国が荷担するということなのです。

 りそな銀行へ1兆9600億円という巨額の税金注入が決まりました。そもそも銀行がリストラや役員報酬、賃金カットなどの経営努力をしてからの公的資金注入ならまだ話はわからないでもないです。が、しかし今回はそれがありませんでした。経営努力をしないまま、責任の所在があいまいなままでの公的資金の注入は、われわれ国民をあまりにも馬鹿にしています。逆に経営努力をする間もなかったのなら、これはまさに金融危機です。しかし、小泉内閣はこれを「金融危機」とは一言も言いませんでした。

 自民党の税制調査会で、消費税が10%以上になることはすでに決まっています。欧米では消費税10%20%は当たり前と言っている政治家がいますが、これも「大ウソ」です。スウェーデンでは社会福祉がとても充実していての消費税ですし、他の国では食料品などの生活必需品には消費税がかからない国があります。すべてのものに消費税がかかる日本(手数料にも消費税がかかる国民を馬鹿にした国)とそうでない国とを比較して、日本の消費税の水準は低いといって消費税率引き上げをうたっている政治家は国民を欺いているのも同然です。

 「増税する前にやることがあるだろ!」と問いつめたい今日この頃です。

 小泉首相は任期中は消費税率引き上げないと言っていますが、過去に公約をいくつも破った首相の言うことを、いったい誰が信用するでしょうか。

○ノーベル賞について思う2003.1.20
 昨年日本で2人のノーベル賞受賞者が出て大変話題になった。小柴さんと田中さんである。一昨年も名古屋大学の野依教授がノーベル賞を受賞してこの時も大変話題になった。
 野依教授の場合は、光学異性体という異性体を作り分ける技術を開発したための受賞であり、彼の研究内容もいろいろなところで取り上げられた。ところが、今度の場合は少し違い、ノーベル賞ダブル受賞というインパクトもさることながら、大学の研究者でない田中さんが、一般企業の技術者にすぎなかったこと、そしてなによりも「癒し系」といわれるその人柄だった。このため、ワイドショーなどでだいたいてきに取り上げられて、田中さんの一挙手一投足が時におもしろおかしく報道され、そのくせ彼の研究についてはほとんどふれられないという日々が続いた。こうしたワイドショー的報道に、田中さん本人もうんざりしていたようだった。
 理工学に力を入れてきた日本で、その最高の栄誉であるノーベル賞受賞をこのように茶化して報道するマスメディアに、私はほんとうんざりした。また、こうした報道を見て、まるでアイドルの追っかけのように田中さんを追っかける日本人を見ていると、日本人の文化程度の低さを恥ずかしく思う。
 あなたは田中さんの名前を言えても、田中さんの研究の中身が言えますか?

○政治・経済教育について思う。2003.1.7
 2002年を振り返ってみると、政治に経済に暗いニュースばかりであったと思う。小泉内閣の公約であった国債30兆以内はあっさりやぶられ、構造改革は依然不透明のままである。平均株価は9000円を割り、北朝鮮の拉致問題も20年以上たってやっと解決の糸口が見えたにすぎない。公定歩合引き下げやペイオフと聞けば定期預金を解約したり、銀行が破綻すると聞けば預金を金(ゴールド)に換えてみたり、国民の迷走ぶり落胆ぶりがきわだった1年であったように思う。

 戦後50年以上たって、日本は確かに高度経済成長を遂げ、GDPで世界2位、技術立国となった。しかし、近年インドや中国を始めとした東・南アジアの発展はめざましく、GDP世界2位や技術立国としての地位も危うくなってきている。こうした状況を生みだして原因は、良くも悪くも「理数偏重の教育」であったと思う。良くも悪くもというのは、まず資源の乏しい日本が技術立国になれたのも、優秀な科学者や技術者を育成するのに不可欠な理科・数学教育が充実していたおかげだからである。しかし、せっかく築き上げたこの地位が今危うくなっている根本的な原因は、日本の教育が理科や数学だけを重視し、時代の変化を読みとる力である社会科を軽視してきたことにある。

 日本の社会科は、大きく分けて、歴史、地理、公民と3分野に分けられる。しかし、よくよく考えてみれば、政治や経済の内容は中学3年生の公民分野で扱うだけで、小学校、中学校、高校と12年間で、たった1年しか学ばないのである(2003年度から高等学校では、現代社会と世界史が必修となったが、それまでは現代社会は選択となっていたため、公民分野は学ばなかった)。

 これは、少なくとも日本国民の、政治や経済、金融について、知識や関心の乏しさと結びついていると思う。2002年9月17日の「日朝共同宣言」があるまで、北朝鮮に連れ去られた人たちがいるということさえよく知らなかった人はたくさんいるだろう。小泉内閣が推し進めている「構造改革」や「特殊法人改革」が何を意味するのかさえわからない人は少なくないはずである。バブル崩壊以降、長引く不況や不良債権が問題視されているが、そもそもバブル経済とは何なのか、なぜ不況が長引いているのか、不良債権って何なのか、こうした疑問に答えられる人は決して多くはないと思う。

 今日本に問われているのは、時代の変化を読みとる力である。この力を養うためにも、是非とも政治・経済教育を充実させて欲しいものである。

 学校の通知表はおかしくなっている! 学力低下はこうして起こる! 『下流社会』が登場するなど、格差社会が進む中、ゆとり教育が導入されたホントの理由とは? 誤った個性を重視した教育の弊害がまさに「ニート」と「フリーター」の問題なのです。
 教育心理学の理論的見知と学習塾での実践的見知から、教育問題について斬新かつわかりやすい切り口で語る。教育界初の「すらすら読める解説本」がここに。教師も親も子も必見!教育問題を解決するヒントがここに。

<目次>
Chapter1.ゆとり教育になって学校はどうなったの? どうしてゆとり教育が始まったの?/いわゆる『ゆとり教育』になるまで
Chapter2.学力が低下してるってホント? 学力低下はこうして起こる!/学力低下を防ぐにはどうしたらよいか?/もう一つの学力低下=学ぶ意欲の低下はどうするの?
Chapter3.算数の教科書が薄くなってどうなったの?
Chapter4.通知表がおかしくなったってホント? 通知表のつけ方はどう変わったの?/絶対評価とか相対評価っていったいなに?
Chapter5.『円周率=3』ってのは大ウソってホント?
Chapter6.スクールカウンセラーっていったいなに?
Chapter7.学校の先生のレベルが落ちてるってホント?
Chapter8.学校評議員制度ってなに?
(教心ネット:http://www.kyo-sin.net/)

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