| 県名の由来 |
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| 愛知県 |
| 「あいち」の地名は、万葉集の『桜田へ鶴鳴きわたる年魚市潟潮干にけらし鶴鳴きわたる』に詠まれている「年魚市」に由来するようであり、廃藩置県後の明治5年、尾張・三河両地域が統廃合されたとき、県名に採用されました。 http://www2.aia.pref.aichi.jp/ikusei/j/siori/vol_shiori_aichi.pdf |
| 青森県 |
| ”青森”という地名は、江戸時代前期の1624(寛永元年)年、弘前(ひろさき)藩が現在の青森市に港町の建設を始めたときに名付けたものです。当時、現在の青森市本町附近に青い森があり、港に入る船の目印になっていたと言われています。(残念ながら、今は残っていません。) http://www.pref.aomori.jp/info/history/shitsumon.htm |
| 秋田県 |
| 日本で初めて書かれた歴史の本「日本書紀」に、秋田の地名が「齶田(あぎた)」と出てきます。7世紀の中ごろ阿部比羅夫(あべの ひらぶ)が180そうの水軍を率いてやってきたころのことです。その後、まもなくアギタは「飽田」に書きかえられます。「飽田」は、低湿地を意味する悪土などからきた悪田から生まれた地名とも言われています。やがて天平時代には、「秋田」と書かれるようになり、明治4年の廃藩置県により藩の名をとって「秋田県」としました。 http://www.pref.akita.jp/koho/furusato/min10/min10.html |
| 石川県 |
| 石川、とは現在の石川郡・能美郡を流れている手取川のことを指すそうです。
その昔、この川はよく氾濫を起こし、大きな石をも流す暴れ川で、流域には流された石がゴロゴロしていました。そこで、この手取川を「いしかわ」と呼んだことからこの川の周辺が石川郡と名付けられたそうです。
ちなみに、「手取川」は木曾義仲軍が京へ上る時に、神の使いである巫女が手を取って浅瀬を渡し導いたとの伝説から由来するようです。
この「石川」という郡名が県名となるのは明治の廃藩置県のときですが、石川県が作られたとき、県庁が今の金沢市ではなく、現在の石川郡美川町に設置され、「石川県」となったのですが、すでにこの地方の経済の中心が金沢に集まっていたというような理由だと思われますが、県庁のほうは、わずか一年ほどで美川町から金沢に移りましたが、県名はそのまま残って「石川県」となったそうです。 http://www.hot-ishikawa.jp/faq/page_top.html |
| 茨城県 |
| 茨城県の地名のなかには『常陸国風土記』にその由来が記されているものがある。「茨城」という県名もまたそうだ。県名は茨城郡の名をとってつけられたものだが、その郡名は賊を討つために茨の城を築いたことからきていると記されている(別の由来も記されている)。 「常陸」もまた同風土記に由来が2つ記されている。そのひとつは倭武尊(やまとたけるのみこと)が、あるとき井戸から流れ出る美しい泉で手を洗おうとして着物の袖をひたし濡らしてしまった。この「袖をひたす」ことから「常陸」と名付けられたという。 http://www.pref.ibaraki.jp/discover/00_6/01.htm |
| 岩手県 |
| 「盛岡市三ツ割の東顕寺(とうけんじ)に注連縄(しめなわ)が張られた三つの大石があり、この石は、岩手山が噴火したときにとんできた石といわれ「三ツ石様」と呼ばれて人々の信仰を集めていた。
このころ、羅刹鬼(らせつき)という鬼が里人や旅人に悪さをするので、困りはてた里人は「三ツ石さま」に「どうか悪い鬼をこらしめてください」とお願いしたところ、たちまち三ツ石の神様が羅刹鬼を三つの大石に縛りつけてしまった。ビックリ仰天した羅刹鬼は「もう二度と悪さはしません。二度とこの里にも姿を見せませんからどうぞお許しください」というので、三ツ石の神様は「二度と悪さをしないというシルシをたてるなら」といわれ、羅刹鬼は三ツ石にペタンペタンと手形を押して南昌山の彼方に逃げ去った」。そこでこの地を岩に手形・・・岩手と呼ぶようになったという。 http://www.bunka.pref.iwate.jp/seikatsu/chimei/data/kenmei.html |
| 愛媛県 |
| 「愛媛」の名は、『古事記』(和銅5年(712年)太安万侶の編纂による。)の記述に、伊邪那岐の命と伊邪那美の命が国生みをしたとき、「伊予の国を愛比売といひ」とあり、この愛比売が「愛媛」に転化し、現在の県名になったとされています。 http://www.pref.ehime.jp/k/aramashi/kenmei.html |
| 大分県 |
| 「豊後国風土記」は、"おおいた"について景行天皇に由来を求めています。天皇がここに来たとき「広大なる哉、この郡は。よろしく碩田国(おおきた)と名づくべし」とし、これがのちに"大分"と書かれるようになったといわれます。
しかし、実際の大分平野は広大とは言いがたく、むしろ地形は狭く複雑であり、「多き田」→「大分」との見解が最近の定説です。これが"とよのくに""おおいた"の由来です。
http://www.pref.oita.jp/10400/symbol/symbol04.html |
| 大阪府 |
| 岡山県 |
| 平野の中の小さな丘を「岡山」と呼んだが、その中の一つに
岡山明神は奉られたことに由来する http://www.2103.ne.jp/aria_info/okayama_info/ |
| 沖縄県 |
| 香川県 |
| 鹿児島県 |
| 神奈川県 |
| 昔、神奈河、神名川、上無川などとも書かれ、武蔵国久良岐郡(現在の横浜市神奈川区)の地域をいい、
古くから陸上・海上交通の重要なところでした。これが県名になったのは、横浜開港に伴い、安政6年(1859)に
「神奈川奉行所」を置いたことによります。そして、明治元年(1868)9月に神奈川県となりました。 http://www.pref.kanagawa.jp/syoukai/pref.htm 昭和2年に誕生した神奈川区。区名は中世からこの地で栄え、すでに県名ともなっていた神奈川の地名をとりました。神奈川は、鎌倉幕府の執権北条時宗の発した文書の中にも記されている古い地名ですが、その由来にはさまざまな言い伝えがあります。 「江戸名所図会」の上無川※の項に、「神奈川本宿の中の町と西の町の間の道を横切って流れる小溝で、水が少ししか流れておらず、水源が定かでないため上無川という。カミナシガワのミとシを略してカナガワというようになった」という説が記してあります。 また、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東方へ赴く際、上無川から舟に乗ったとき、その宝剣が水面に写り金色に輝いたので、金川と名づけたとする説や、源頼朝が金川の風光をめで、「神大いに示すの地、よって神大いに示すと書き、字を神奈川となすべし」と言ったので、その時から金川を神奈川としたという説もあります。 ※現在の神奈川小学校東脇にあり,今は埋め立てられています。 http://www.city.yokohama.jp/me/kanagawa/profile/kanakana/kana01.html |
| 岐阜県 |
| 戦国時代、織田信長(おだのぶなが)が稲葉山(いなばやま)城(いまの岐阜城)を攻め落として美濃を支配し、城下町の井之口(いのくち)を「岐阜」に改めました。中国の周(しゅう)という国が岐山(ぎざん)を中心として中国を統一したことにちなんでつけたと言われています。
また、「岐阜」という地名は信長が名づける以前から使われていたとも考えられ、その由来にはいろいろな説があります。 http://www.pref.gifu.jp/kodomo/symbol/ |
| 京都府 |
| 熊本県 |
| 古代の日本語で「ク」は沼沢地、「マ」は崖を意味し、熊本城のあたりが崖下の低湿地であったことに由来する等の説がある http://www.windsnet.ne.jp/43/ |
| 群馬県 |
| 高知県 |
| 埼玉県 |
| 佐賀県 |
| 滋賀県 |
| 静岡県 |
| 島根県 |
| 千葉県 |
| 東京都 |
| 徳島県 |
| 栃木県 |
| 鳥取県 |
| 富山県 |
| 長崎県 |
| 長野県 |
| 奈良県 |
| 新潟県 |
| 兵庫県 |
| 兵庫の地名は、大化の改新(645年)の際、摂津国境の須磨関を守るために「兵庫」という武器を納めた倉が作られたことに由来しているとする説があります。平安時代の末、橘経遠が作った土地寄進状に「兵庫庄」とあり、初めて「兵庫」という名称が出てきます。 http://web.pref.hyogo.jp/kouhou/hyogoeyeh14/file/2_6sugata1.htm |
| 福井県 |
| 福岡県 |
| 福島県 |
| (1) 明治9年に、当時の若松県、磐前(いわさき)県、福島県が合併して、現在とほぼ同じ姿の福島県が誕生しました。「福島」の名称は、そのころの県庁所在地だった福島町から取ったものですが、文禄2年(1593年)ごろ、木村吉清によって、福島城として使われたのが初めてだといわれています。
なお、詳細な由来は不明とされています。
「福島県史」「図説福島市史」より (2) 信夫(しのぶ)郡は昔、見渡す限りの湖で真ん中に信夫山(しのぶやま)があった。この山には吾妻おろしが吹きつけていたため、吹島(ふくしま)と呼ばれるようになった。 その後、長い歳月を経て、湖が干上がり陸地ができ、次々と集落が生まれた。吹島は風が吹きつけることをきらって、吹を福とし、福島と呼ぶようになった。 「伊達風土記」より (3) 福島の中心街一帯はかつて信夫の里の杉目(すぎのめ)郷と呼ばれた地域にあたり、目の前に阿武隈川をのぞんだ土地。ここに応永20年(1413年)ころ、当時の伊達盆地の支配者である伊達持宗が杉目城(大仏城=だいぶつじょう)を築き、福島が町になる転機をつくった。 伊達氏はこのあと、独眼竜政宗の時代に、中通りと会津の全域を支配するまでに育ったものの、天正18年(1590年)天下を握った豊臣秀吉に追われ、さらに北方の土地へと移っていく。 新しく中通りと会津の支配者となったのは秀吉の信任厚い蒲生氏郷(がもううじさと)である。氏郷は会津黒川城を本拠とし、伊達盆地の杉目城をその支城としていたが、城の名を縁起のいいものにするため、黒川を若松に、杉目を福島にしたと伝えられている。福島の名は福にあやかったもののようである。 http://www.pref.fukushima.jp/list/what_l.html |
| 北海道 |
| 三重県 |
| 明治5年(1872)3月(ただし旧暦)に、はじめて「三重県」という県名が使用されたということです。
当時、今の三重県の区域は、津の南を流れる相川を境に南北二つの県に分かれていました。それぞれの県庁が安濃郡津大門町と度会郡山田岩淵町に置かれていたことから、安濃津県・度会県と県名がつけられていたのでした。 ところが、安濃津県の県庁は、県境に近くあまりにも南に寄りすぎているとか、四日市の方が交通や郵便に便利であるとかいった理由で、県庁が、津から三重郡の四日市に移転することになったのです。この県庁の移転が完了したのが明治5年3月28日で、県名も県庁所在地の名をとるのを原則としていましたから、この時から三重県の名が使われたわけです。( 県名の改称は 3月17日付け) 次に、翌6年になると、県庁として利用していた建物(四日市陣屋跡)が狭いことや、さらに南の度会県との合併のきざしも出ていたことなどから、再度県庁を四日市から津に戻すことになります。 しかし、今度は県名を変えず、そのままでした。このことに対し反対の意見もあり、伊賀上野の政治家・立入奇一(たちいりきいち)は、『三重県改称之儀ニ付建白』(明治8年1月)を左院に提出しました。今もこの文書は、国立公文書館に保存されています。 立入は「他郡ノ称ヲ以テ県名トナスハ則名ノ正シキモノ非ス」と、県名を改称するよう主張し、内務省でも一度は受け入れる意向を示しましたが、既に、外国に開港された神奈川県・兵庫県にも同様の問題があることや、度会県との合併話もあったため、結局のところは将来の問題として残されたようです。 そして、明治9年4月18日に、度会県との合併により、現在の三重県が成立しますが、県名は改称されず、現在に至っています。 http://www.pref.mie.jp/BUNKA/TANBO/BUNKA/mieb20.htm |
| 宮城県 |
| 仙台産業振興事務所が所管する5市8町1村は、古くは4つの郡にわかれていました。南から亘理郡(山元町・亘理町)、名取郡(岩沼市・名取市)、宮城郡(仙台市・塩竃市・多賀城市・松島町・七ヶ浜町・利府町)、黒川郡(大和町・大郷町・富谷町・大衡村)です。郡名のいわれは諸説ありますが、亘理郡は、「和名抄(わみょうしょう)」に和多里とあり、川の渡しを意味しておりそれが語源と考えられています。名取郡は、アイヌ語のヌタトリ(湿原)によると考えられています。宮城郡は、古代の陸奥国(むつのくに)の都が多賀城に置かれ、みちのく
仙台都市圏(仙台地方県事務所より転載) の治府として「宮なる城の所在地」から、「宮城」の名が定着したと考えられています。また、県名も古い郡名宮城郡にその根拠を求めていますが、1888年宮城(きゅうじょう)の制が定まったとき、宮城の県名が皇居と同一であるのをはばかった県当局は、とくにその筋の内意を確かめ、その上でこのいわれのある県名を存続させたと伝えられています。黒川郡は、中央を貫流する吉田川が鉱水のため、かつて黒い川であったことから黒川の地名が付けられたと推測されており、郡名が歴史上初めて現れたのは「続日本紀(しょくにほんぎ)」のなかで、742年以前に郡が成立をしていたと考えられています。 仙台藩祖となる伊達政宗は、400年前の1601年仙台城に入城しますが、この国の末永い繁栄を祈念して、 「入りそめて国豊かなるみぎりとや千代とかぎらじせんだいの松」 と詠んでいます。この当時、仙台の地名は「千代」と書いて「せんだい」といっていましたが、政宗はそれを仙台に改めました。 仙台の命名のいわれは、唐の詩人韓(かんこう)の七言律詩「同じく仙遊観に題す」に求められます。紀元前二世紀、漢の文帝は、仙台といわれた仙遊観(せんゆうかん)という壮大な宮殿を建造しました。その素晴らしさをたたえ韓が、古くから中国で伝説上の存在 として知られた仙境崑崙山(こんろんさん)の五城十二楼(ごじょうじゅうにろう)の宮殿になぞらえて詠んだのが、次の詩です。 同じく仙遊観(せんゆうかん)題す 仙台 始めて見る 五城楼(ごじょうろう) 風物 凄凄(せいせい)として 宿雨(しゅくう)収まる 山色(さんしょく) 遙かに連なる 秦樹(しんじゅ)の晩(くれ) 砧声(ちんせい) 近く報ず 漢宮(かんきゅう)の秋 疎松(そしょう) 影落ちて 空壇(くうだん)浄(きよ)く 細草(さいそう) 春香ぐはしくして 小洞(しょうどう)幽(かす)かなり 何ぞ用いん 別に方外(ほうがい)を尋ねて去るを 人間(じんかん) 亦(ま)た自(おのずか)ら丹丘(たんきゅう)有り 当時まで仙台は千代と書いてせんだいと呼んでいましたが、政宗はこれを今の仙台の字に改めています。 かって日本においては、地名は天皇大権に属するという考えもあり、地名を勝手に変更したりしなかったといわれていますが、信長が岐阜の地名を変更したことと同じく古代中国を統一した周の故事に習ったものと伝えられています。 http://www.pref.miyagi.jp/sdsgsin/sdss310/data/02/sdss310_02_01.htm |
| 宮崎県 |
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