| 学力低下ではなく「意欲低下」が国を滅ぼす |
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| はじめに | |
| 日本の教育に関する議論においては、学力低下よりももっと怖い「意欲低下」の問題について議論すべきである。 本章は、『教育が危ない1 学力低下が国を滅ぼす(2001 西村和雄編 日本経済新聞社)』のレビュー、及び心理学的な視点から見た考察を付け加えたものである。この本を取り上げた理由は、1)「危機に立つ国家」という、1980年代のアメリカのいわゆるゆとり教育に対する危惧についてまとめられた報告書が載っていること、2)近年日本の教育やマスコミをさわがしている「学力低下」に関する有識者の指摘についてはかなりの部分誤りがあり、私なりの考えを述べること、以上の2点からである。ただ、この本に登場する有識者の意見や危機意識には筆者も大いに賛同する部分はある。しかし、彼らの指摘は必ずしも的を得たものではなく、教育の問題についての根本的な指摘がなされていないという点が大いに不満である。 教育は国家100年の大計であることは言うまでもないが、分数ができない大学生がいる、2002年度施行の新指導要領等、「学力低下」が日本の教育の最重要課題とされている。しかし、筆者(当サイト管理人)は学力低下よりももっと問題視すべき根本的な問題があると考えている。それこそが「意欲低下の問題」である。 なお、引用については『』書きで、論評については改行して記述しておく。 |
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| 教育が危ない1 学力低下が国を滅ぼす レビュー 第1章 算数ができない大学院生−学力調査 慶応義塾大学戸瀬信之 京都大学西村和雄 |
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| まず始めに、中学や高校で習った基礎的な計算や数式(数学)を扱っておきながら、「算数ができない・・・」と言っている著者の学力低下の方が筆者は心配である。 この章では、中学や高校で習う基本的な計算や数式の得点について、旧帝大レベルの大学院生と学部生の比較結果を示している。感想としては、正答率が100%ではない問題や100%にはほど遠い問題がたくさんあるということである。しかし、これが即学力低下を意味するわけではない。それは、問われている問題が中学生や高校生でも100%解ける問題とは限らないからである。要するに、大学生にこの手の問題を解かせた結果から読みとれることは、以下の二つのケースが考えられる。 1)中学・高校時代に解けなかった問題は、大学生になっても解けない。 2)中学・高校時代に解けた問題が、大学生になって解けなくなる。 1)のケース、2)のケースどちらに関しても、学力低下と言えば学力低下であろう。しかし、それぞれのケースで意味するものは少し違う。 まず先に2)のケースについてだが、人間というのは使わない知識は忘れてしまうものである。従って、高校時代にできて大学時代にできないのはむしろ当然の結果でさえある。大学入試センター試験を受験した生徒(学生)に、1ヶ月後同一の問題をとらせて同じ点数をとることができる生徒はおそらくほとんどいないだろう。結局、この場合の学力低下は鉄がさびたようなもので、一時的なものである。 それでは1)のケースについてはどうだろうか。この場合は、同一問題で違う世代の人たちと比較をしなければいけないだろう。例えば今の中学・高校生の得点と10年前に中学・高校生だった人の当時の得点を比較するのである。その結果、今の中学・高校生の方が得点が低いというのであれば、いわゆる学力低下という現象が起きていることを示す結果の一つと言えるだろう。 p.7 『以上から、大学院の充実とは名ばかりで、増員の学生については学部レベルの授業にもついていけない学生をかき集めて数だけ増やしたという実態が見えてくる。』 →確かにそうである。しかし、学部のレベルの授業についていけないのは学力低下だけが問題だろうか。それ以前の学ぶ意欲、すなわちその授業を学びたくて受講しているのか、学びたくなくしかたなく受講しているのかで結果に大きな開きがあるはずである。 大学や大学院の定員増により、学力が低下した学生が入学してくる以前に、学ぶべくして入学してきたとは言えない、意欲の低い学生が入学してきてはいないだろうか。学力以前に意欲がなければ大学の授業についていけないし、むしろついていこうとさえしない。 |
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| 第2章 大学崩壊 なんのための定員順守か 京都大学西村和雄 同志社大学八木匡 | |
| まず、近年の大学教育の実態として、少子化と進学率の向上という現状に対して、大学の新設及び定員増、大学院の拡大という政策がとられている。特に大学院に関しては、これまでは大学(学部)の上に大学院(研究科)というのが設置されており、学部の教官が大学院で教えるという形になっていた。しかし、大学院重点化という、大学を大学院大学にすることで、教官の所属を大学院にし、そして学部の授業も受け持つという形になった。 旧帝国大学をはじめ大学院重点化は各大学で進んでいるが、これは国から出る予算が大幅に増えるのと、大学生き残りをかけた死活問題でもあるからである。しかし、なにも増えるのは予算だけではなく、大学院の定員も増えるのである。 p.19 『定員順守が大学院生の質を低下させたことは否定できない。』 →筆者も同様の意見である。大学院に限らず定員順守は受験者のレベルに左右され、必ずしも必要最低限の学力を有する者が入学してくるわけではないという点で問題であり、学力低下という現象を引き起こす原因の一つである。 |
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| 第3章 危機に立つ国家 アメリカ教育省 | |
| p.35 『標準テストにおける高校生の平均学力は、スプートニク号打ち上げが行われた26年前と比べると低くなっている。』 p.39 『今日のわが国の学校・大学の“平均的な卒業生”の能力を見ると、25年、35年前の平均水準を下回っているのである。』 →1980年代の25年前、35年前と言えば、日本で言えば戦中戦後の時代である。この時代に学校へ通っていたのはごく一部の知識や教養、そして学ぶ志のある学生(いわゆるエリート)に限られていたはずである。このエリート学生が70年代、80年代になって就学率の向上した時代の平均的な学生と比べて優れているのは当然のことで、比較自体が無意味である。もっとも、できる子もできない子もすべて含まれる今の学生全体が、一昔前のエリート学生と比べてできが悪いと言って、なんで悲観する必要があるのだろうか。 p.45 『大都市圏では、基礎学力を身につけさせるということが、スタート地点というよりもむしろ最終目標のようになってしまっている地域がある。大学の中にも、入学者の数を維持することに躍起になっていて、厳格な学力水準の維持などお座なりになってしまっているところがある。』 →これは日本でも同様の問題点として指摘できる。いわゆる進学校と言われる学校では、スタート地点であるはずの基礎学力の向上にのみ異常なまでのエネルギーを注いではいるが、その先の教育はお座なりである。一部の大学では、定員確保のために受験科目を減らしたり、受験生が科目を選べたり、はたまた何度でも受験できる方法をとったりと、受験生や学生確保に躍起になっており、入学後の教育は質より量のブロイラー方式である。 p.50〜 『高校のカリキュラムは均一化されており、内容は希薄で、中心的な目的が欠落した散漫なものになってしまっている。実際において、カフェテリアスタイルのカリキュラムでは、前菜とデザートがメインのコースであるとの思いが生じやすい。省略・・・。 このセルフサービスのカリキュラム方式は、学生の選択の幅が広まったことと相まって、今日われわれが抱えている問題の大きな原因となっている。提供されている科目のうち、「中級代数」を実際に終了した学生は、近年の卒業生の中では31%にすぎない。「仏語T」を終了したのは全体の学生のうち13%、「地理」については16%にすぎない。「微積分」に至っては、約60%の学生が登録可能であったにもかかわらず、終了したのは全学年のうちの6%である。 一般コースの高校生が取得した単位のうち、4分の1は、「保健体育」、「学校外勤労体験」、「補修英語」、「補修数学」、それにパーソナルサービスコースにおける、「成人教育」、「結婚教育」といったものである。』 →ここで問題になっているのは、教育の柱になる部分が欠如していることと、カフェテリア方式(好きなものを好きなだけ選ぶ)による弊害である。一言で言えば、「学生は楽な授業と楽しい授業をとって、難しい授業は避けている」ということである。そして結果として何を学んだか?と問われれば何も学んでいないということである。 人間の心理を知っていれば予測できる当たり前の結果である。 p.53 『出版者が市場の需要に応えるために、低いレベルの読み手にあわせて「レベルを落とした」教科書を作成している。』 →本章では、教科書の作成にあたる教師や学者の中に経験豊かなものがほとんどいないと指摘しているが、それ以前に出版者(社)の本音として、「売れること」が前提にある。 近年、教育にも競争、とくに「市場原理を導入すべきだ」という意見があるが、これは結果として「消費者にこびをうる」ということになり、教育の本質を曲げてしまう危険性も含んでいる。先の例はその典型であろう。 日本のテレビ番組に関して興味深い現象がある。それは、「子どもたちにもっとも人気のある番組=大人がもっとも子どもに見せたくない番組」という図式が成り立つと言うことである。市場原理というのは皮肉なもので、教育上もっともよくないとされるものがもっとも良く売れる場合がある。教育における市場原理というのは大いにジレンマを含んでいると言えよう。 競争は全体的なレベルを向上させるのではなく、高いレベルのものはより高く、そして低いレベルのものはより低くという、格差を拡げる性質を持っている。市場では競争に負けたものは淘汰されればよいが、教育ではどうだろうか。競争に負けたものは淘汰されえればよいのだろうか。また、全体的なレベルにあわせてしまい、高いレベルのものや低いレベルのものを放っておいてもよいということにはならない。教育における競争もまた大いにジレンマを含んでいると言えよう。 p.54 『学問的な教科の指導を1週間にたった17時間しかしない学校があった。平均時間は、1週間でおおよそ22時間であった カリフォルニアで行われたクラスごとの調査では、時間割がうまく管理されていないため、ある小学生が他の生徒に比べて5分の1しか読解力の指導を受けられないようなケースもあった。 ほとんどの学校では、「学習方法」を身につけるための指導は場あたり的で無計画なものである。そのため、生徒は高校を修了しても、規律正しく、系統立てて勉強する習慣のないまま大学に入学することが多い。』 →ここでは、教育行政という制度上(ハード)の問題と、授業というソフトの問題の2つがあげられる。アメリカでは州によって教育制度が異なるため、統一されていない格差のある教育がなされている。そのため学校によって国語や算数(数学)などの基本教科の授業時間にばらつきが生じることがある。これは最低基準ないし最低授業時間を設けるなどの対策をとる必要があるだろう。 もう一つの問題として、授業というソフト上の問題がある。せっかく制度として確立していてもそれを守らなければ意味がない。これは学校や担当教師の技量や生徒の実情によって異なる問題である。同じ授業時間、同じ授業内容を設定しても、教える教師が下手であれば教育目標は達成できないし、教わる側の児童・生徒の質や量がことなれば達成される教育目標にも差が生じてくる。こうしたハードとソフトの問題の両方についての検討がなされなければいけないはずである。 その他の問題として、最後にあげられているが、「学習方法」を身につける教育がなされていないことである。学校教育においては、授業や授業における学習方法のみが焦点になるが、実は学校外での学習方法の確立はその子の生涯にとってもとも大切なものの一つである。学校における「学習方法」は場あたり的で無計画なものであるのは指摘の通りである。もっとも児童・生徒の「学習方法」そのものが場あたり的で無計画なものである。「テストの前にまとめて勉強し、テストが終われば勉強しない」というのが学習者にとってもっともポピュラーな学習方法である。これは、人間の心理を考えれば当然のことかもしれないが、教育のハードの問題として「学習方法」を指導する場がないのが現状である。その点、本国で2002年度から施行される「総合的な学習の時間」は不可欠な時間である(ただし、これはハード面の問題としては解決されたが、ソフト面では大いに問題がある)。 p.57 『今回のわれわれの推奨事項は以下のような信念に基づいている。学習する能力はすべての人に備わっている。誰もが本来学習意欲を持って生まれ、その学習意欲を伸ばし育むことができる。』 →これは、実際に教育実践に携わったことがある人間なら、建前上そう言ったとしても、本音としては絶対に思っていないことであろう。「学習する能力はすべての人に備わっている」とは幻想でさえあり、現実問題としてどんなにたくさん教えても、どんなにうまく教えても「できない子はできない」というのが本音である。「誰もが本来学習意欲を持って生まれ、その学習意欲を伸ばし育むことができる」のなら、入学者選抜試験などいらないはずであろう。 中学生になっても、漢字が書けない子、かけ算わり算がままならない子は少なくないし。その上、試験ではすべて漢字で書くようにというと、文句を言う始末である。勉強そのものに対する姿勢が崩壊している子が実に多い。方程式を教えようにも、文字式がわからない。文字式を教えようにも、正の数負の数のたし算引き算ができない。社会科で重要事項を教えようにも、まず漢字がわからない。 p.61 『成績は、学力の到達度を測る指標とすべきであり、学生がより高度なレベルの学習の準備ができているかどうかを示す証拠として信頼できるものでなければならない。』 『高校での履修を必要とする科目とその科目での成績、そして「新基礎五科目」の標準学力テストでの達成レベルによって、入学許可の基準を告示すべきである。』 |