| どうなる学校教育!? | ||
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| 2002年 学習指導要領改訂 −ゆとりの教育− | ||
| 2002年の4月から新しい学習指導要領になりました。いわゆるゆとりの教育です。ところで、ゆとり教育が始まったのは実はもっと前からなんです。戦後の詰め込み教育によるおちこぼれや非行の問題を反省し、1977年の学習指導要領の第4回改訂から、学習内容を減らし個性とゆとりを重視した「ゆとり教育路線」が始まりました。そして1989年(平成元年)の第5回改訂では、子どものやる気といった、関心、意欲、態度などを重視した「新しい学習観」が打ち出されました。また、「教師は教える立場ではなく、あくまでも子どもが学ぶのを支える立場」へと変わりました。 こうした流れをくんで、2002年の第6回改訂で「ゆとり教育」が本格的にスタートすることになりました。 ゆとり教育とは、「ゆとり」の中で特色ある教育を、そして「生きる力」をはぐくむことが基本的なねらいです。主な変更点は、「学習内容を3割削減」、「学校週5日制」、「総合的な学習の時間の新設」、「絶対評価の導入」です。 |
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| やまないゆとり教育批判 | ||
| ゆとり教育の発表と同じころ、「学力低下」が活発に議論されるようになりました。文部科学省のスポークスマンとして寺脇研氏が、ゆとり教育の効果をしきりに強調していました。彼の主張は「ゆとりの中で、学習内容を厳選し3割削減した上で、自ら学び、自ら考える力を育成するのがねらい」ということでした。 しかし、いざふたをあげてみると、ゆとりの中身は、「寝る」、「ゲームをする」、「塾や習い事」ばかりで、真のゆとりにはつながる気配はありません。大学教育は「まず個性、学力置き去り」という見出しで揶揄されるほど。京大の西村和雄氏が98年に、日本と中国の一流といわれる大学の文系学生を対象に数学の問題を解かせる調査を行った結果、中国の学生が95%の正答率を示した問題に対し、日本の大学生の正答率は、東大45%、京大23%、慶応5%、早稲田2%という惨憺たる結果だったという。 当初から賛否両論ありましたが、寺脇氏は文化庁へ左遷!?されたのは決して偶然ではないでしょう。寺脇研氏は、かつて広島県の教育長に天下って改革を行った結果、公立高校からの東大京大進学者が激減し全国最低レベルに落ち込んだという実績(前科)があります。 そもそも、近年の学力低下をめぐる論争で明らかになったのが、文部科学省は学力に関する客観的なデータをとっていなかったということです。これは失政、いや、もはや職務怠慢である。「ないのだからない」と言わんばかりだが、学力に関するデータを、大手予備校が提供するという奇妙キテレツな事態さえ起きた。客観的なデータを用意せずに教育改革を押し進めている文部科学官僚が、いかに教育の現状にうとい、無知無能な役人かということも明らかになった。 学校完全週5日制、教科の学習内容が大幅に削減された新教育課程の最初の生徒が大学生となる2006年には、大学の授業崩壊が起きるのではないかと懸念されている。これは、コンピュータの2000年問題を文字って「大学2006年問題」と揶揄されている。 |
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| 間違ったゆとり教育 | ||
| 今教育現場では信じられないことが起きている。教科書が読めない、ノートがとれない、漢字が書けない、席に座っていられない、九九が言えない・・・。まだまだ、指を使わないとたし算ひき算ができない小学5年生がいる。学校のテストでは80点、90点をとるのに、実際には九九も満足に言えない児童がいる。社会科のテストで漢字で書こうとしない中学生がいる。模試の算数で30点しかとれないのに通知表は3(最高評価)の児童がいる。 学習内容を3割削減したというが、解の公式を学ばずしてどうやって考える力を育てろと言うのだろうか。教える知識を減らしてしまったが、知識に基づかない判断は、思考と言うよりも当てずっぽうである。繰り上がりのたし算が満足に計算できないのに、ひっ算などできるはずがない。わり算は3年生で習うが、わり算のできないこのほとんどはかけ算ができない。かけ算ができないのだからわり算ができるはずがない。「関心のある歴史上の人物についてレポートしなさい」と言われても、歴史上の人物が1人か2人しか言えない子は、興味関心に基づいてレポートが書けるだろうか。 学習内容を厳選しても、基礎基本が身に付いていなければ考える力など育つはずもない。それどころか基礎基本さえ身に付いていない子どもは少なくない。っと、批判だけして何も変わらないし何も始まらない。現実にいるこうした子どもたちにどう対処したらよいのだろうか。どうしたら基礎基本が身に付くのだろうか。 「学力低下は紙面で起きているのではない。現場で起きているんだ!」 |
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| 「育」から「育」へ いつになったら「教え」るのか | ||
| 教育についてこう強調することがあります。教育の「教」は教えるの「教」、教育の「育」は育むの「育」だと。戦後の高度経済成長に伴って、日本の教育は「教」だけが強調されたと言われています。確かにそうだと思います。校内暴力、いじめ、不登校、落ちこぼれ、すべて詰め込み教育の弊害だと言えるかもしれません。1980年代後半から、教育の「育」が見直されるようになりました。個性や心の教育は、「教える」のではなく「育てる」のだという考えに基づいてです。 しかし、小学校1,2年生の理科と社会科が生活科へと変わり、2002年の指導要領からは子どもたちが自ら考え学ぶ総合的な学習の時間ができました。その上、教科の学習でも、調べたり考えたりするこ、いわゆる「育む」ばかりで「教え」る部分は大幅に減ってしまいました。 総合的な学習の時間でも「育み」、教科の学習の時間でも「育む」。いったい、いつ「教え」るんでしょうか? |
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| 明らかになった学校間格差 | ||
| ところで、ゆとり教育以前の問題がある。それは、学校・教師の学力観である。 東京都荒川区が2003年2月に「学力向上のための調査」を行い、各学校の目標達成率などとあわせて公表した。これで明らかになったのは「学校間格差」である。教科、観点で程度の差はあるが、学校間で達成率が20〜30%も格差があることが明らかになった。地域性の違いはあるが、おおよそこれらの違いは学校・教師の学習観・学力観の違いと考えられる。 http://www.city.arakawa.tokyo.jp/9/STUDY/shidoshitsu/index.htm |
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| おろさかにされた基礎基本 | ||
| 学力の基礎基本は「読み書き計算」である。これは何百年も前からの常識である。しかし、近年この常識が崩れつつある。今教育現場で基礎基本と言えば「見る聞く話す」であるという。 戦後のGHQの統治下で、子どもが体験を通して学ぶっていう児童中心主義の教育が施行された。これは経験主義教育とも言われた。 しかし、1950年代の後半になると、経済成長とともに、育むから教えるへ、経験から知識へと教育観が変わっていった。そして、 文章や漢字が満足に読めないのに、教科書に書いてあることが理解できるだろうか? 板書、書き取り、まとめ、直し。英語や漢字は書かず(反復練習せず)に見ただけで覚えることができるだろうか? たし算、ひき算、かけ算、わり算。計算が満足にできないのに算数・数学ができると言えるだろうか? 止まったボールの中心を蹴ることができない子は、サッカーが満足にできないのと同じことなのです。 |
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| 「できる」よりも「わかる」を重視した授業 | ||
| 算数や数学で、「できるよりもわかる」を優先しようとするあまり、結局どちらも身に付かなかったという授業を見たことがあります。 分数の概念を教えるとき、ケーキを切ったりコップにジュースを注いだりと、いろいろ試してみた結果、子どもたちは「わかった」と言ったものの、後で計算問題を解いてみたら、「1/2+1/3=2/5」とお約束の間違い。 結局「わかった」というのは「わかったつもり」でいるだけで、本当は「わかっていない」ということだったのです。分数の計算問題が解け(でき)ても、分数の意味を理解していない子はいます。つまり、できてもわかるとは限らないのです。しかし、わかっていれば、できるんです。 1を教えただけで10がわかる子はごくわずかです。多くの子は、教えてもらってできるようになるまで時間がかかります。そして、できるようになってもわかるようになるまでさらに時間がかかる子も少なくありません。しかし、できないとわかるようになるはずがないんです。できるに遅れてわかるがついてくるものは実にたくさんあります。かけ算、わり算、小数、分数、百分率、方程式などなど。 |
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| 知識がないのに考える力は育つのか? | ||
| ある金属でできた矢があります。何の金属でしょう? 答えは「鉄」。などと漢字クイズを出しても、金属の意味や鉄という漢字を知らなかったらおもしろくも何ともありません。私も子どもに楽しんでもらおうと、漢字たし算「一+日+十」、「十+早+月=?」といった問題を出しました。結果は不評でした。肝心の「朝」という漢字が書けなかったり、そもそも漢字のたし算の意味が全くわかっていないという、根本的な問題があったからです。 「聖武天皇が中国に送った使いはなんと言いますか?」と聞かれて、「遣隋使」と答える子がたまにいます。聖武天皇が活躍した時代と隋の時代はずれているため、そもそも遣隋使のはずはないんです。 聖武天皇は701年生まれ、隋の滅亡は618年。もうない国に使いは送りようがありません。だから「遣唐使だ」と考えることができるのは、聖武天皇と隋・唐に関する知識があるからこそなのです。 小野妹子→遣唐使でいいや、というような、知識があやふやなままの判断は、思考というよりもあてずっぽうなのです。 |
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| 知識がないのに興味関心は生まれるのか? | ||
| ※タネや仕掛けがわからない手品や科学の実験は、むしろ知識がない方がおもしろいのですが、ここではそういう話はおいといて・・・ 先ほども書いたのですが、「関心のある歴史上の人物についてレポートしなさい」と言われても、歴史上の人物が1人か2人しか言えない子は、興味関心に基づいてレポートが書けるだろうか。 生活科や総合的な学習の時間の新設はいろいろ議論を呼びましたが、実はまだ議論されていない重大な問題があるんです。それは「選択」の授業ができたことです。いつのまに?と言いたいところですが、中学生ぐらいの知識レベルでは文字通り「選択の余地がない」んです。結局は、普通に数学の授業になったりしていることがほとんどです。そもそも大学生になっても「選択科目」は知識や教養に基づいているというわけではないようです。大学では一般教養科目の中に選択科目がありますが、必ずと言っていいほど「この講義は楽だからいいよ」、とか「この教授はやさしいから単位がとりやすいよ」といったことが選択の基準となる始末である。もっとも、国語や数学といった教科の勉強しかしてこなかったわけだから、生活科学や心理学なんていわれてもピンとこないわけなんです。 興味や関心というのはなかなか育てられるものではないはずです。もちろん「教え」るものでもありません。何もない漠然とした状態から選べというよりも、先行した知識という選択肢があるからこそ選べるのです。 子どもはナイチンゲールが好きだからナイチンゲールの本を読むんでしょうか? ナイチンゲールの本を読んでその人となりの知識を得たからナイチンゲールを好きになるのではないでしょうか? |
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| 反復練習はいけないのか? | ||
| 戦後の詰め込み教育の反省から始まったゆとり教育路線で、失った一番大切なものは「反復練習」です。教科書をくり返し読んだり、漢字をノートに書いたり、何度も何度もたくさんの計算問題を解いたり。江戸時代の寺子屋や戦後の学校教育では当たり前に見られた光景でしょう。 しかし、今こうした指導を「詰め込みだ」とか「創意工夫がない」とか批判する人がいますが本当にそうでしょうか。 本を読むときに声を出して読むのを「音読」、声を出さずに読むのを「黙読」といいます。音読よりも黙読の方が高度であるのは確かです。しかし、子どもに黙読させるのはテスト時以外はあまり意味がないことです。なぜなら、音読すればその子の国語力がよくわかるからです。読めない漢字があれば詰まったり読めなかったりします。文節の区切り方がおかしければ意味を理解できていないはずです。 逆の言い方をすれば、漢字が読めなかったり、適切な文節の区切りができないと、文書を理解することは不可能です。そして、漢字も文節の区切りも、くり返しくり返し練習しなければできるようにはならないのです。 計算についても同じです。算数や数学が苦手な子は四則計算が満足にできないケースがほとんどがです。九九は小学校の2年生で習います。3年生でわり算を習うときに九九が満足に言えないと、わり算の問題がさっぱり解けません。ここでいう「九九が満足に」というのは、正確さもさることながらスピードです。「48÷6=」を解くのにいつまでも6の段を唱えていては、置いてきぼりを食う一方です。 はっきりいうと、かけ算100問が3分以内に解けない、とわり算は満足に解けません。100ます計算で脚光を浴びた「陰山メソッド」の言い分が納得できます。 最近の学校教育では、2年生で九九を教えたらそれで「はい、おしまい」で、できるかどうかは2の次にされてしまう風潮があります。子どもというのは習ったことの多くを忘れてしまいます。人の名前ならまだしも、九九では7×6や、7×8、8×6などで間違いが目立ちます。これは覚えにくいんです。覚えにくいものはすぐ忘れます。だからこそ反復練習が必要なんです。そうでないとわり算で確実につまずきます。九九は個人差はあれどの子も習得することができます。そして、100ますかけ算をすれば、どの子も必ずタイムが縮まります。 100ます計算の効果は3つあります。まず1つ目は、必ずと言っていいほどタイムが縮まり、かけ算の計算力が飛躍的に上がるいうことです。2つ目に、タイムが縮まることで、子どもたちにできたという実感がわくこと、つまり「自信がつく」ことです。3つ目に、問題を解いている間、どの子も集中して取り組むため「忍耐力」がつくことです。もちろん、弊害もあります。かけ算を習いたての小学校2年生にやらせてみると、3分くらいでできる子から、10分以上かかる子まで、そして最後には泣き出してしまう子もいます。こういうときは、無理強いしないことです。 大切なことは、必ずタイムを記録し続けること、子ども自身に目標タイムを立てさせること、そしてタイムが縮まったら教師や親、だれかがほめてあげることです。 この点では、小学校3年生というのは学習上非常に重要な学年となってきます。3年生の頃までに、基礎基本をしっかりと身につけておかないと、4,5,6年生になって致命的な学習の障害として現れてきます。できるできないという認知面だけでなく、やるやらないという意欲や我慢強く取り組むという忍耐力といった精神面でです。 |
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| 競争はいけないのか? | ||
| これから始まる「二極化」の恐怖 | ||
| 何を教えるかという議論の不足 | ||
| どうやって教えるのかという議論の不足 | ||
| 陰山メソッドが意味するもの | ||
| これからの学校教育 | ||