| これでいいのか絶対評価!? | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 相対評価から絶対評価へ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 2002年度から学習指導要領が改訂され、評価方法が大きく変わりました。それは集団の中でどれくらいの位置にいるのかを示す相対評価から、個人が学習内容をどの程度達成できたかを示す絶対評価へです。賛否両論があるにしろ、あったにしろ、絶対評価の実態はどうなのでしょうか。 |
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| 絶対評価: 「5」にばらつき 学校間格差、最大45倍 <毎日新聞 2004年5月25日> | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 横浜市内の公立中学校を今春卒業した生徒の「絶対評価」に基づく教科ごとの成績評価で、5段階評定の「5」の割合に最大45倍の学校間格差があることが分かった。高校入試の調査書に影響する成績評価が、絶対評価の導入で甘くなる「バブル」の一端が浮かび上がった。評価基準の客観性が問われそうだ。 毎日新聞社が学校別の評定一覧を情報公開請求し、同市教委が公開した。全校分の公開は政令市で初めて。 学校名と成績が公開されたのは、同市内の公立中145校を今春卒業した生徒の2年修了時と3年2学期の分。学校別に全9教科で1〜5の生徒数が記載されている。調査書はこの時期の成績に基づいて作成される。 1学年の生徒数が40人以上の学校(144校)で、「5」の生徒数の割合に最も差がついたのは2年生の英語。80人中44人(55%)と82人中1人(1.2%)の学校の格差が45.8倍あった。全校の「5」評価数の平均は、以前の「相対評価」で定められていた7%の2倍を超える17.7%。30%以上も9校あった。3年生の保健体育では、「5」が56.4%(335人中189人)と高率の学校がある一方、0%(14人中0人)の学校もあった。 ある学校では全9教科で「5」評価数の平均が4割を超え、評定平均は2年生が3.79、3年生が4.02だった。相対評価の場合は3.00になるが、同校の校長は「興味や関心を持ち、意欲的に学習する生徒が多いから」と他校より高い原因を説明。同市教委も「突出する学校は気になるが、問題ではない。絶対評価ではあり得ること」と静観する。 しかし同市立中の40歳代の男性教諭は「学校現場の実態からは想像できない高値。入試での土俵が違ってしまい、受験生に不公平感をもたらす。絶対評価の調査書を入試の選抜資料に用いるのは疑問」と首をかしげる。 神奈川県の公立高入試では調査書の比重が大きく、今春から絶対評価の調査書が合否判定に使われている。【渡辺創】 ■ことば(絶対評価) 新学習指導要領に合わせ、02年度から全国の小中学校で導入された。5段階評定で最高の「5」は7%などと各評定の割合があらかじめ定められた相対評価と異なり、学習目標をどこまで達成できたかを評価する。理論上は全員が「5」もあり得る。 http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/edu/news/20040525k0000m040152000c.html |
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| 変わる入試 潜む危険 「ダブル不合格」愛知で急増 <中日新聞 2004年4月26日> | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 「内申点がオール5でも不合格になる受験生が、これからはもっと増える」。名古屋市にある進学校の高校の教頭が感じた、絶対評価による内申書を加味した入試の“危うさ”への懸念。それが「ダブル不合格」という形で噴出することになった。 同県の受験生は、4つのブロックに分けられた公立高の一般入試を2回受験できる。その両方を不合格になった数が、進学校を中心に過去最高となるケースが続出した(下記表)。
学習塾の連合体「塾の会・愛知」の関係者は「内申点のインフレ化が進み、学力を過信した受験生が上位の進学校に殺到した」と指摘する。今春の受験生の内申点を見ると、45(満点)〜39の生徒数が相対評価だった去年に比べ1.3倍に、38〜32も1割増えた。愛知県では「1995年以降、出ていない」とされていた中学浪人が9年ぶりに出る結果になった。「絶対評価には主観がどうしても入る。学力を測るものさしとしてはどうかと疑問が消えない」。名古屋市の公立中教諭(50)は打ち明ける。名古屋市のように評価の統一基準づくりが学校ごとに委ねられている現状では、「学校間で格差が生まれるだけでなく、地域によっても評価が違ってきてしまう」とも。 愛知県三河地方の進学校では、絶対評価導入で特徴的な現象が起きた。優秀とされる中学からの受験・入学者が増えた。「相対評価の時代では、際立って優秀な生徒が高い評定を取ってしまうため内申点を思うように取れなかった−という層の生徒の評定があがったのでは」と、この進学校の教務主任は分析。 文部科学省によると、今春の高校入試では大阪、広島、兵庫、鳥取の4府県は絶対評価による内申書の導入を見送った。奈良、熊本2県は絶対評価と相対評価を組み合わせた折衷案で対応した。 「絶対評価では差がつきにくい。学力試験重視、内申書軽視を招く」とする大阪。広島も「公平性が確保できない」。両府県とも、将来の導入は「未定」だ。 来年3月の入試から導入を決めた兵庫県では、教科ごとに評価基準を作り県内の全中学校に配った。「基準のあいまいさに不信感がある以上、学校や地域でばらつきが出ないように」というのが理由だ。 「学力を正しく表せない」 と指摘される絶対評価による内申書。自治体の中には、それの“弊害”を埋め合わせる対応策として、内申書と学力試験の比重を変えるケースが見られる。 愛知県はこれまで同等に扱っていた内申書と学力テストの比率を6対4から4対6と幅を持たせ、中下位の生徒たちの選抜に生かした。栃木県は、その比率を1対9から9対1までにした。進学校ほど学力テストの比重が高いのが特徴だ。 「進学校は、生徒を希望の大学に入れるのが使命。だから、重要な評価はやはり学力だ。生徒一人ひとりの人間性や意欲を反映させるという意味では、絶対評価もすばらしいとは思うが・・・」。愛知県内のある進学校の教諭は、こんな懐疑的な本音を漏らした。 |
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| ここまでひどい絶対評価の実態 −モデルケース− | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 問題点だらけで、もはや入試では信用されなくなりつつある絶対評価だが、守秘義務を盾にその実態というのはなかなか見えてこなかった。ここではモデルケースをもとにその実態にせまる。 中学校での絶対評価の内訳を算出した。結果は予想よりはるかにひどかった。5段階評定であるはずなのに「1」は誰一人としてついていなかったのである。教科によっては「2」すらついていない。表を見れば歴然であるが、「1」や「2」の評定が「3」にシフトし、「5」や「4」も相対評価と比べて2割〜3割高い。これは大手学習塾のデータともほぼ一致する。これでは事実上3段階評価だ。 分数ができない大学生等、学力低下が起きている今、このような異常な評定の高さは説明がつかない。さらに驚いたことに、現場教師の大半が異口同音に「これでいい」という無責任さだ。 ※このデータは、個別に集めたデータを40人学級に換算したものである。
小学校では、3段階評定であるが、その実態もひどいものである。客観的に見て算数が普通の児童に堂々と「3」がついている。国語では、漢字の習得率が50%程度、音読もままならない児童に「2」がついている。事実上2段階評定だ。 ※小学校は3段階評定 3・・・良い、2・・・普通、1・・・悪い
毎日新聞は情報公開制度を利用して横浜市内の公立中学校の評定一覧を集計した。 報道で明らかになったのが、学校間格差である。「5」の生徒数の割合でもっとも格差があったのが、中2の英語で「80人中44人(55%)」と「82人中1人(1.2%)」と実に45倍である。相対評価でも学校間格差や評定の内訳などの問題点があったが、絶対評価での問題点は比べものにならないくらいひどい。 評定平均は、相対評価なら「3.00」になるが、絶対評価になって2年生では「3.79」、3年生では「4.02」となっていた。これは横浜市だけが特別高いというわけではない。全国的にほぼこのような水準だと予測される。 実に「内申バブル」である。 評定の平均が「4.02」というのは、平均すると「オール4」ということだ。先ほど事実上3段階評定だと言ったが、まさにその通りだ。 もっとも問題にしなければいけないことは、絶対評価に対する現場教師の問題意識の低さだ。横浜市のある中学校の校長は「興味や関心を持ち、意欲的に学習する生徒が多いから」と、他校より評定が高いことを説明している。横浜市教育委員会の「気にはなるが、問題ではない」という発言も問題だ。 絶対評価の実態について、ある教員に尋ねたところ「みんな志望校に合格していくから問題ない」という有様だ。基礎学力が不十分なのに、実力以上の高校に合格することが「問題ないこと」なのか。この教師の良識を問いたくなった。 絶対評価については国の制度であるから仕方ないとしても、評定をつける教師のレベルの低さにはあきれてものが言えない。客観的に見て「2」の生徒に「4」をつけるのは、犯罪的行為に等しい。企業で言えば赤字を黒字という粉飾決算に等しい。 評価の規準は一教師ではどうにもならない。しかし、評価の基準については現場教師の良識が問われているのだ。 ■ことば(絶対評価) 新学習指導要領に合わせ、02年度から全国の小中学校で導入された。5段階評定で最高の「5」は7%などと各評定の割合があらかじめ定められた相対評価と異なり、学習目標をどこまで達成できたかを評価する。理論上は全員が「5」もあり得る。 |
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| 保護者から見た絶対評価 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 少なく見積もっても「今の小学生の1/3は筆算ができない」。もちろん「23+45」や「12×4」といった筆算はできる。しかし、「1000−294」や「143×24」といったくり下がりが何度もあるひき算はかなりの数の小学生ができない。というよりも学校で教えないからだ。かけ算についても同様である。「3けた×2けた」のかけ算は、今の小学生の大半が「何をやってよいかわからない」のだ。 こうした子どもの実態に、 「学校では80点、90点とっているから問題ありません」 と、保護者の大半はこう言う。通知表の算数の評定は決まって「3」か「2」だからだ。 5年生なのに、かけ算の筆算もできない。これではとても小数のかけ算などできるはずもない。かけ算の筆算は小学校の3年生で習う。3年生で習ったことができないのに5年生の内容などできるはずもない。それでも、小学校の通知表は「3」がつくという。 『算数では分数や小数や割合が難しいとされているがこれは誤解である。分数も小数も割合も、結局は「かけ算が基本」になる。5年生で小数ができないということは、10倍、100倍という概念や単にかけ算の筆算がわかってからなのだ。現場教師がこの根本的な問題に気づかずに「小数を教えるのは難しい」と思っていたら、それは滑稽な話である。』 さて、親はこの評定を鵜呑みにする。 しかし、情報力のある家庭はその限りではない。しっかりと学校のテストの問題用紙を見ている。しかもすみからすみまで。危機感のある親は「こんな簡単なテストで90点をとっても・・・・」と思い子どもを連れて塾へ駆け込む。思った通り、塾での公開模試の結果は芳しくない。 「学校ではいつも90点なのに、公開模試の偏差値は50にも満たない」というケースが後を絶たない。 |
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| 田中耕治京都大学教授の主張 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 田中によれば、「絶対評価」というよりも「目標に準拠した評価」と表現した方がよいという。「絶対評価」というと、「教師の主観的で恣意的な評価」と思われがちであるからだと言う。「絶対評価(目標に準拠した評価)」へと評価方法が変わった理由としては、「相対評価」の問題点が顕在化してきたからであるが、その問題点とはなんだろうか。 ◆相対評価=勝ち組・負け組という発想 「相対評価」のもとでは、「自分の成績を上げるためには誰かを蹴落とさなくてはならないというシステムになっている」と田中は主張しています。そして、この時最も問題なのは、競争それそのものではなく、「排他的な競争」になることだと言う。つまり、「相対評価」のもとでは「勝ち組」と同時に「負け組」が生まれてしまい、これはきわめて非教育的な発想だ、と主張しています。これでは、子どもは「勉強をして何かを学んだ」ということよりも、勉強で勝ったか負けたかを考えがちになり、これはいわゆる「受験学力」の問題点でもあると言う。 「相対評価」は子どもたちができなかった場合には、その原因を一方的に子どもの努力不足や能力不足に求めようとする、いわば「発達をあきらめさす評価」として作用していると言う。 田中は2002年度の学習指導要領の改訂で、このような問題点の多い「相対評価」が一掃されたとまで言っています。 ◆絶対評価(目標に準拠した評価)=テストの点数にのみとらわれない評価 「絶対評価(目標に準拠した評価)」は、学習指導要領に掲げられた目標を子どもたちの評価規準(評価すべき観点)とするものです。おおむね、国立教育政策研究所が作成した「評価規準」に関する参考資料などを参照し、各学校現場で創意工夫して評価基準(目標への到達程度)を設定しています。ところで、田中は「大切なことはテストの点数にのみ目を奪われるのではなく、どのような学力がどの程度子どもたちに身についているのかに着目してほしいこと」だと言う。 「絶対評価(目標に準拠した評価)」のもとでは、もし子どもたちがつまずいたりできなかった場合には、もう一度教育活動を反省して回復学習などが取り組まれるように、いわば「発達を励ます評価」として作用すると言う。 ※ここでの田中氏の発言については、下記サイトを参照の上、筆者が趣旨を損ねない範囲内でまとめたものである。 http://www.nipponhyojun.co.jp/johoshi/vol_7/p26.html |
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| 評価に関する教育心理学的研究 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 学校教育の評価方法には、教育心理学の研究が大きな影響を与えています。ここでいくつか論文を紹介したいと思います。 ◆評価主体と評価基準の効果 鹿毛(1990)は、大学生を対象に3×3の9つの図形の配列を完成させるという課題を与えて実験を行った。 その結果、他者評価条件群の方が自己評価条件群に比べて課題プリントの希望人数と内発的動機づけ得点が有意に低かった。また、相対評価条件群の方が個人内評価条件群に比べて自主提出プリントが有意に少なかった。評価方法が緊張や不安に与える影響についても調べた結果、他者評価条件群の方が自己評価条件群に比べ緊張や不安を高めた。総じて、他者評価は、緊張や不安を高め、内発的動機づけを低下させたという。一方で、相対評価は、内発的動機づけを低下させるものの、緊張や不安を高めるものではなかったと報告されている。 ※鹿毛は、より統制された実験室的な状況を採用し大学生を被験者としたが、本研究での知見をもとに教育現場での評価のあり方を過度に一般化して論ずることは厳しく慎むべきであると付記している。 ◆到達度評価と自己評価 鹿毛(1993)では、小学生の分数の学習において、到達度評価の効果について調べた。到達度評価群では、小テストで授業で「わかったこと」と「できたこと」を評価した。さらに、児童自身が評価を書き込む自己評価群と教師が評価を書き込む教師評価群に分けられた。 その結果、到達度評価は外発的に動機づけられた児童の内発的動機づけを高める効果があった。また、統制群に比べ、小テストの実施を肯定的にとらえていた。さらに、知能の高い児童の挑戦意欲を高め、学力の低い児童の小テストの得点を高める効果があった。テスト不安の高い児童にとって、教師評価は思考過程を重視するのを妨げる効果があり、自己評価はそのような影響はなかった。 さらに分析をした結果、内発−外発的に動機づけられてるかに関わらずどのような児童にとっても知的好奇心を最も高めたのは、到達度評価・教師評価群ではなく、到達度評価・自己評価群だった。また、失敗に対する柔軟性については、到達度評価・教師評価群は学力の高い児童に対しては失敗に対する柔軟性を高める効果があったが、学力の低い児童に対しては効果が少なかった。一方、到達度評価・自己評価群は、どのような学力の児童に対しても効果があった。 以上、相対評価から絶対評価へと変わったことでどのような効果が予想されるかという点で、鹿毛の研究結果をまとめると、 ・相対評価は、内発的動機づけを低下させるものの、緊張や不安を高めるものではなかった。 ・到達度評価は外発的に動機づけられた(内発的動機づけの低い)児童の内発的動機づけを高めるのに効果があり、知能の高い児童の挑戦意欲を高め、学力の低い児童の小テストの得点を高める効果があった。 となる。 特記すべきは、鹿毛の研究で得られたそのほかの知見は、到達度評価は自己評価と併用することで、到達度評価のメリットが強調され、デメリットが解消されるということである。例えば、『到達度評価・教師評価群は学力の高い児童に対しては失敗に対する柔軟性を高める効果があったが、学力の低い児童に対しては効果が少なかった。一方、到達度評価・自己評価群は、どのような学力の児童に対しても効果があった。』がそうである。 鹿毛雅治(1990) 内発的動機づけに及ぼす評価主体と評価基準の効果 教育心理学研究38,428-437. 鹿毛雅治(1993) 到達度評価が児童の内発的動機づけに及ぼす影響 教育心理学研究41,367-377. |
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| 「絶対評価」の評価 −教育現場では− | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 相対評価と絶対評価について、専門家の意見はともかく、肝心の教育現場、特に教師や児童・生徒の評判はどうなのであろうか。結論から言えば、相対評価賛成派と絶対評価賛成派の双方がいるということ、そして意外というか予想通りというか、相対評価賛成派の方が多いのが現状なのである。 ◆相対評価賛成派(これまでの評価賛成派) 「相対評価の方が良かった」 「相対評価の時よりも絶対評価の時の方が成績が下がった」 「周りに負けたくないと言う気持ちでがんばれた」 「絶対評価では受験がどうなるのかわからない」 「絶対評価では、授業態度や提出物の提出状況など、先生の好き嫌いが入るので公平でない」 「絶対評価では、テストで良い点をとっても授業態度などが悪いと成績が悪かったり、逆にテストの点が悪くても一生懸命勉強しているようなふりをすれば良い成績になるのはおかしい」 「絶対評価では、テストだけでなく、普段の授業態度や提出物などのチェックが厳しくなって息苦しい」 「絶対評価では、単元テストというテストをやるようになって、テストが増えた」 「相対評価と絶対評価の2通り通知表がつけてあるけど、相対評価の方が良かったから良い。」 ◆絶対評価賛成派(新しい評価賛成派) 「絶対評価になって、成績が上がるか下がるか不安だったが、上がったのでうれしかった」 「相対評価ではがんばったのに成績が上がらなかった」 「テストだけでなく、授業態度や提出物などをがんばってやれば成績が上がるのでうれしい」 「相対評価と絶対評価の2通り通知表がつけてあるけど、絶対評価の方が良かったから良い。」 ◆教師の意見 「相対評価もそうだが、絶対評価ではそれ以上に学校間格差があり、高校入試では参考にならない」 ※多くの都道府県で2003年度の高校入試での内申点は、相対評価の得点を使用。このため、2002年度の中学校3年生は、相対評価と絶対評価の2通りの内申を作成している学校があります。 こうしてみると、絶対評価賛成派は、「自分の成績が上がったから良い評価方法だ」と言う意見が目立つ。そして、のど元すぎれば熱さ忘れるではないが、相対評価ではなくなった今、意外にも相対評価の方が良かった、あるいは相対評価はこういうところが良かったという意見が目立つ。 http://www.asahi.com/edu/yutori/index.html |
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| 相対評価<絶対評価なのか? | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 田中氏によれば、相対評価は、勝ち組・負け組をつくり、他人をけ落とすという「排他的な競争」が問題だと主張しています。これでは、子どもは「勉強をして何かを学んだ」ということよりも、勉強で勝ったか負けたかを考えがちになる。さらに、「相対評価」は子どもたちができなかった場合には、その原因を一方的に子どもの努力不足や能力不足に求めようとする、いわば「発達をあきらめさす評価」として作用していると主張しています。 一方、絶対評価(目標に準拠した評価)は、テストの点数にのみとらわれない評価で、もし子どもたちがつまずいたりできなかった場合には、もう一度教育活動を反省して回復学習などが取り組まれるように、いわば「発達を励ます評価」として作用すると主張しています。そして、「大切なことはテストの点数にのみ目を奪われるのではなく、どのような学力がどの程度子どもたちに身についているのかに着目してほしいこと」だと主張しています。 つまり、田中氏によれば相対評価<絶対評価なのです。 しかし、教育現場では、必ずしもそうではなく、むしろ逆のように思えてきます。 結論から言えば、田中氏の言っていることは間違いであると私は思います。つまり、相対評価<絶対評価ではないのです。鹿毛氏の研究によれば、相対評価は、内発的動機づけを低下させるものの、緊張や不安を高めるものではない。そして、到達度評価(絶対評価)は、一部の児童・生徒にしか効果を持たないという側面があることを主張しています。そして、児童・生徒からは「自分の成績が上がったから良い評価方法だ」と言う意見が目立ち、意外にも相対評価の方が良かった、あるいは相対評価はこういうところが良かったという意見が目立ちます。肝心の教育現場では、絶対評価は分が悪いようです。 |
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| 絶対評価の何が問題なのか? | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 相対評価が悪く、絶対評価の方が良いという意見はこれまで多くの方が主張してきたことだと思います。しかし、いざふたを開けてみると、どうもそうではないらしいということをあちらこちらで耳にします。 最も、田中氏には悪役になってもらったわけですが、鹿毛氏の研究で、興味深い知見が得られました。それは、評価の方法が教師によってなされるのか、それとも児童・生徒自身が自らするのかという評価方法の違いによって、絶対評価も意味合いが変わってくるという知見です。今現在学校教育行われている評価主体は、少なくとも教科に関する評価については、教師評価なのです。鹿毛の研究で言うと、到達度評価・教師評価群の結果こそが、今の教育現場の現状に最も沿ったものなのです。そう考えると、相対評価から絶対評価に変わっても、その効果はすべての児童・生徒に及ばないということが一応実証されたことになります。最も、すべての児童・生徒にとって効果的な万能な評価方法なんてものは存在しないでしょうが、できるだけ多くの児童・生徒にとって効果がある評価方法を目指す必要はあるでしょう。 結局のところ、到達度評価・自己評価群は、どのような動機づけや学力をもった児童・生徒に対しても効果があった、という点で、現状の絶対評価よりも一歩進んだ評価方法だと言えるのではないでしょうか。 さて、現状の絶対評価では、いったい何が問題なのでしょうか。田中氏は、「相対評価」は子どもたちができなかった場合には、その原因を一方的に子どもの努力不足や能力不足に求めようとする、いわば「発達をあきらめさす評価」であり、「絶対評価(目標に準拠した評価)」のもとでは、もし子どもたちがつまずいたりできなかった場合には、もう一度教育活動を反省して回復学習などが取り組まれるように、いわば「発達を励ます評価」であると言う。しかし、果たして本当にそうだと言えるでしょうか。 一方の鹿毛氏は、到達度評価は一部の児童の内発的動機づけや挑戦意欲、小テストの得点を高める効果があったとしています。また、テスト不安の高い児童にとって、教師評価は思考過程を重視するのを妨げる効果があり、自己評価はそのような影響はなかった。 両氏の言っていることは、一見同じように思えますが異なる点があります。それは、田中氏が相対評価<絶対評価(目標に準拠した評価)としているのに対し、鹿毛氏は絶対評価(到達度評価)<絶対評価(到達度評価)・自己評価としている点です。そうです、相対評価だろうが絶対評価だろうが、その評価をいったい誰がするのかという問題まで指摘している点が異なるのです。これは私には、絶対評価は教師が評価するのではなく児童・生徒自身が評価した方が効果が高いということを意味していると思います。別の見方をすると、相対評価に比べ絶対評価の方が評価の基準があいまいという点で、教師が評価することの悪影響が大きく出てしまっているのではないでしょうか。極端な話、これでは以前の相対評価のままの方が良かったような気もします。結局問題点の一つ目としてあげられるのは、どう評価するのかではなく、誰が評価するのかということです。 田中氏は、「相対評価」は子どもたちができなかった場合には、その原因を一方的に子どもの努力不足や能力不足に求めようとする、いわば「発達をあきらめさす評価」であるとしています。しかし、これはいかにも教育現場のことをあまり知らない学者が言いそうなことです。そもそも、「他人をけ落としてというような排他的な競争」は教育現場でそれほど問題になっていないようです。確かに、努力したけど相対評価であるがゆえに成績が上がらなかったら、それはその子をあきらめさせてしまうような評価といえます。 しかし、同時に周りに負けたくないと言う気持ちでがんばれたという子がいるのも確かです。これは相対評価のメリットでもあるのです。これまで通知表の「5」はクラスの中でも上位1割程度、3〜4名しかとれない、いわばがんばった勲章なのです。相対評価から絶対評価へと変わったで、この勲章はたいして価値のないものに成り下がってしまったと言えます。実際、一部の中学校では、大してがんばらないでも「5」がとれてしまうことで、向上心の欠如した中学生が増えているという話を耳にします。これは今後、近年問題になり始めた学力低下に追い打ちをかける深刻な問題のではないかと思われます。 田中氏は一方で「絶対評価(目標に準拠した評価)」は発達を励ます評価であると言っています。児童・生徒の話を聞いてみると、「テストだけでなく、授業態度や提出物などをがんばってやれば成績が上がるのでうれしい」、「絶対評価では、テストだけでなく、普段の授業態度や提出物などのチェックが厳しくなって息苦しい」、「絶対評価では、単元テストというテストをやるようになって、テストが増えた」という意見があります。果たしてこれが発達を励ます評価と言えるでしょうか。これでは発達を励ます評価どころか、発達を妨げる評価である危険性さえあります。 「絶対評価では、授業態度や提出物の提出状況など、先生の好き嫌いが入るので公平でない」といった意見があります。評価のあるべき像というのが見えてきます。それは何を評価するのかということです。これは二つ目の問題点としてあげられます。 さらに、「絶対評価になって、成績が上がるか下がるか不安だったが、上がったのでうれしかった」、「絶対評価では、テストで良い点をとっても授業態度などが悪いと成績が悪かったり、逆にテストの点が悪くても一生懸命勉強しているようなふりをすれば良い成績になるのはおかしい」という意見があります。成績が良ければそれでいいのだろうか。逆に良い成績をとるために良い子のふりをすることは良いことなのだろうか。 最後に三つ目の問題点として、何のために評価するのかをあげておきます。評価には、形成的評価、診断的評価、総括的評価があります。 |
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| 総括 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 「通知表が変・・・」 こうした話をすると現場教師は決まって「成績がすべてではない」という。そうだ。確かに成績がすべてではない。成績はあくまでも結果にすぎない。しかし、その結果に一番こだわっているのが、実は教師自身なのだということに現場教師自身が気づいていない。 通知表の評定の話をすると、決まって返ってくる答えは「ちゃんとした評価基準を作っている」とか、「評定を出すためにどれほど苦労しているか知ってる?」等、延々と評価の話が続く。しまいには「教師でもない人にはわからない。わかるはずもない」と言わんばかりの勢いである。 しかし、問いたいことはそういうことではない。絶対評価になって、きめ細かい評価規準や基準を作成し、成績を算出するまでの煩雑なまでの手続きに沿って成績をつければつけるほど、出てきた成績はおかしなものとなっている、という事実である。 結果、「2」の児童に「3」をつけているのはいったい誰だろうか? 「1」の児童に「2」をつけて、平然としているのはいったいどこの誰だろうか? 「結果よければすべてよし」という言葉があるが、そのままなのが今の現場教師である。通知表のことを一般に「評価」という。学校で行われる評価は教育評価と呼ばれる。 実は教育評価にはいくつかの評価の種類や方法ががある。形成的評価、診断的評価、総括的評価である。 形成的評価とは、ある程度の授業期間における生徒の理解度を調べ、生徒へのフィードバックをするとともに、 教師の指導法へのフィードバックとするために活用する。これは目標到達度評価である。この場合用いるのは絶対評価が適切である。総括的評価とは、授業の単元ごと、学期ごとに行うもので、主に成績作成のために活用する。この場合用いるのは教師作成テスト、標準テストで、相対評価が適切である。診断的評価とは、単元始め、学期始め等に、生徒の基礎基本の理解の程度をはかるために活用する。 今の通知表の評価方法は「絶対評価」と呼ばれている。少なくとも世間ではそう呼んでいる。どこかのだれかは「目標に準拠した評価だ」と主張するが、待ったをかけるべきだ。絶対評価とは、評価をする人が教師ということにほかならない。相対評価と絶対評価の違いは、相対評価がある物差しを使って決まった割合で成績を割り振ることである。つまり評価の手続きの問題である。これには良いも悪いもない。ただ単に評価の方法にすぎないのだ。一方 「目標に準拠した評価(目標到達度評価)」とは、教育目標がどの程度達成されているかを調べるためのものであり、教育評価の「形成的評価」にあたる。これは評価の種類なのだ。通知表とは成績を決定した結果である。通知表をつけるという目的のために、絶対評価という方法を用い、それを目標到達度評価という種類で呼ぶ。評価の方法と評価の種類をごっちゃにしていたのでは話にならない。このような基本的なミスを大学教授がしているのだから日本の教育も先はしれている。 つまり、 絶対評価=評価の方法 目標到達度評価=評価の種類 <本来あるべき評価の像>
絶対評価自体を、良いとか悪いとか言う短絡的な議論はナンセンスである。なぜなら絶対評価とは単なる評価をする手続きにすぎないからだ。絶対評価は、形成的評価の評価方法としては適切であるが、通知表のような総括的評価に用いるのは適切ではない。この点が問題をややこしくしている。 筆者は当然ながら通知表には相対評価を用いるべきであると考えている。しかし現状ではこうだ。 <現在の評価の像>
つまり、言ってしまえば通知表を形成的評価としてしまっているのが問題なのだ。総括的評価としての通知表を形成的評価としての目標到達度評価として、その評価の方法に絶対評価を用いている、この構図を今示した。当然、誤りである。国の教育方針としても、現場教師の認識としても。 「目標到達度評価(形成的評価)」は結果が良くても悪くても、教師・生徒に即時フィードバックすべきであり、結果が悪かったら、教師の指導法を改善したり児童生徒に補充学習等を行うのが当然である。フィードバックや指導法の改善や補充学習が伴わずして目標到達度評価はあり得ない。 仮に、通知表を目標到達度評価とするなら、通知表の結果が悪かったら担当教師は責任を取るべきである。例えば、小学校2年生では「九九」を習う。九九の学習が目標に到達していなかったとしたら、教師は目標に到達するまで指導すべきである。日本には落第制度がない以上、当然のことである。しかし、このあたりが徹底されていない。というか、学校ごと教師ごとに目標に到達したという基準があいまいだから問題なのだ。 「九九」が言えるのと、「九九」を用いて計算ができるのと、「九九」を理解しているのとでは、全く意味が違う。当然学力検査での結果も異なってくる。なぜ筆者が、「九九」一つで鬼の首を取ったかのように騒ぎ立てるのかが、おそらく現場教師の感覚ではわからないだろう。それは「九九」が理解できていなかったら、3年生のわり算ができないし、その後の小数、分数、割合で確実につまづくからだ。 「理解」という概念もあいまいであることがまた問題を深くしている。よく言われることだが「できる」と「わかる」は違う。「できる」ならば「わかる」というのは論理学的にも必ずしも正しくない。正しいのは「わかる」ならば「できる」である。しかし、今教育現場では、「わかる」を追求して「できる」を追求しない。「できる」よりも「わかる」が大切だという。確かに正論である。しかし、その肝心な「わかる」を何をもって判断しているのかはなはだ疑問である。 論理学的には命題、否定、逆、対偶を考え、論理が正しいかどうかという手続きをふむ。例えば、「雨」ならば「天気が悪い」は正しいが、「天気が悪い」ならばが「雨」は必ずしも正しくない。なぜなら、「天気が悪い」ならば「曇り」という反例があるからだ。ここで、「雨」ならば「天気が悪い」が正しいかどうかは、なかなか判断が難しい。そこで論理学では対偶が正しいかどうかを判断する。対偶は「天気が良ければ(悪くない)」ならば「雨ではない」であるが、これは正しいことがわかる。対偶が正しいので命題も正しいのだ。 では現場教師の判断はいかがか?「できる」と「わかる」は違う。「できる」より「わかる」が大切だという現場教師の主張を検証してみよう。 命題:「できる」ならば「わかる」(対偶:「わかってない」ならば「できない」) これは必ずしも正しくない。わかっていなくても、たまたまできただけかもしれない。特に、割合の問題ではいわゆる「できない子」というのは、問題に書いてある数字を適当にかけたりわってりして、キリのいい数字を答えとする子がいる。この場合はまぐれであっているにすぎない。 命題:「わかる」ならば「できる」(対偶:「できない」ならば「わかっていない」) これは正しい。問題ができない(解けない)ということはわかっていないと言うことに他ならないからだ。 これを読んで現場教師は「ほ〜らみろ」と思ってかもしれない。しかし、そこに落とし穴がある。『「できる」ならば「わかる」は必ずしも正しくない』ということは現場教師は百も承知だ。しかし、だからといって『「できる」よりも「わかる」が大事だ』、だから教育現場ではできるを追求しない。というのはというのは早計である。 『「できる」よりも「わかる」が大事だ』、だから教育現場ではできるを追求しないという理屈は、一見正しいように見えるが、これは誤解である。そもそも、議論すべきなのは「できるから〜」なのではない!「できないから〜」ということだ。今の子どもたちを見ていると実にいろんなことができない。ノートもまともにかけないし、鉛筆の持ち方もおかしい。九九だってまともに言えない。百ますかけ算で5分も6分もかかるような子はできるうちに入らない(百ますかけ算の標準は1分40秒くらいだ。実に九九ひとつにつき1秒だ。百ますかけ算が5分も6分もかかる子は、九九ひとつにつき5秒も6秒もかかっている。これだけ九九が遅いと、2けたかける2けたのかけ算1問を解くのに1分近くかかるだろう。たった10問解くのに、早い子は1分くらいで解いてしまうのに、遅い子は10分もかかりあげく騒ぎ出すのでは、とても授業にならないのでは?>先生方)。筆算に至っては問題なくできる子は皆無。つまり、教育現場では「できる」はかなり軽視されており、その結果「できない」が議論にすらならないのだ。「できない」ということはいったいどういうことだっただろうか? 「できるということよりもわかると言うことの方が大事だ」ということは誤りなのだ。実際には『できないものはわかっていない』。だからこそ「できる」が重要になってくるのだ!! できないと言うことはわかっていないと言うことなのだ。教育現場では「わかる」を重視しているのではなかったか?「わかる」を重視するということは「できない」という結果を軽視しないということに他ならない。 「できない」という結果は、これほど重要な意味を持っている。その重要な意味をシグナルとして親に送るのが通知表の役割ではないか? 「1」の子に「2」をつけるという行為は犯罪行為にも等しい。実際にはできないのにできない子に「ふつう」とか「よい」という評価を下す人間の気が知れない。「できない子」を放っておいて、それでいて通知表には「ふつう」とか「よい」とか評価してそれでおしまい。 「わかる」を重視するといっておきながら「できない」という結果を軽視する、これは教育現場の大きな矛盾である。そして、これこそが、現場教師が成績というものに一番固執していることの現れである。 こうしてみると、「評価」というのは学力を把握したり指導の成果を確かめたりする「手段」ということがよくわかる。しかし、教師も保護者もそれを手段と見ていない。大半の保護者は通知表に「3」と書いてあればその結果だけを見て安心する。「3」という評価をバンバンつける教師もいる。「3・・・良い」、「2・・・ふつう」、「1・・・悪い」。学習の成果を正確に伝えるのが通知表の役割であるはずである。現場教師に今一度問いたい。自分のつけた成績にきちんと責任を果たしているかということを。 「1・・・悪い」という評価を下された子どもは、それ相応の指導が必要だと言うことを親にもしっかりと(口頭で)伝えるべきであるし、何よりも教師自身が指導の至らなさとして深く反省すべきである。「できないものはできない」では、教育も教師も要らないではないか。なぜならば、「できないことをできるようにする」それこそが教育の基本だからだ。それが教師という専門職の仕事なのではないか? 絶対評価の問題については、下記の文献にて詳細に取り上げられています。 |
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